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アステカ王国の誕生と終末―戦いに始まり、戦いに終わった文明-

中央アメリカ地域に絶大な存在感があったアステカ王国

しかし、16世紀にスペイン人征服者コルテスによって滅ぼされることになります。

文字を持たないアステカの歴史を知ることになる文献資料となれば、スペイン人によって記録されたものになるでしょう。

スペイン人たちの目にうつるアステカは、生贄儀式などを行う野蛮で原始的な王国として理解しましたが……

研究が進んだ現代では、アステカ文化への意識が変わりつつあります。

はたして、野蛮な文明という意識からどのような文明として理解されて行ったのか…

そんなアステカ文明の真相を追ってみたいと思います。

湖から生まれたアステカ王国

アステカの首都テノチティトランの復元図/Wikipediaより引用

メキシコ高原からグアテマラにかけての地域には、古代からさまざまな民族の文化が栄枯盛衰を繰り返してきました。

アステカ王国を築くメシカ族もそうした民族のひとつになります。

伝承によれば、メシカ族はアストランという地からやってきた民族であり、14世紀初頭にメキシコ高原中央部へと進出

このメキシコ高原で小さな王国を築き上げ、王国の名をアステカと名づけたられます。

アステカ人は軍神ウィチロポチトリの神に従い、テスココ湖に岬のように突き出した湿地帯にテノチティトランを造り王国の都とします。

テノチティトランは四方を水に囲まれていることから防御性に優れた都市であり、建築資源が乏しかったのですが…

水生生物が多く、農地を開拓するにも向いており、食料を自給することが可能

さらに多くの河川が延びる広大なテスココ湖の水運をカヌーによる物資輸送や通信が王国に軍事面・商業面に有利に働きました。

アステカは15世紀の中頃までにテスココ・トラコパンといった都市と同盟を結ぶなどしながら領土を広げていきます。

アステカの繁栄の背景には、テノチティトランを王都としたことが大きく影響していたと言えるでしょう。

アステカ王国の勢力と風習

1513年頃のアステカの勢力図/Wikipediaより引用

アステカ王国の勢力範囲は最大で西はメキシコ湾から東は太平洋まで、

南は現在のグアテマラシティ、北は現在の東シエラマドレ山脈まで広げたと言われています。

そして、強大な王権を支える基盤となったのは、アステカ人の持つ軍事力でした。

アステカの社会は王族や貴族、戦士、商人、職人、一般市民や農奴に奴隷などから成り立つ社会であったと言います。

また、後のスペイン人たちが恐れたアステカの生贄儀式ですが、これは独自の神話と熱心な信仰心を持つアステカ人の日常と言えるのではないでしょうか。

アステカの信仰はさまざまな周辺民族の風習などが融合して成立したものになります。

さらにこうしたアステカの習俗が、交易や戦争によって周辺の部族へと波及し、新たな文化が生まれていきました。

アステカ王国の滅亡

コルテスとモクテスマ2世の会合:コルテスの後ろに通訳のマリンチェがいる/Wikipediaより引用

しかし、1519年にスペインから征服者コルテスが紆余曲折を経てメキシコ盆地へとたどり着きます。

このスペイン人の襲来によって、アステカ王国は一気に崩壊への道を辿ることになります。

コルテスはアステカ人女性マリンチェの助言から、反アステカ勢力を味方としてテノチティトランへと総攻撃を仕掛けました。

そしてアステカ人の必死の抵抗もむなしく、1521年8月13日テノチティトランの陥落をもって、アステカ王国は滅亡のすることになります。

 

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