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古代オリエントを支配したアッシリア帝国は紀元前7世紀末、崩壊の時を迎えます。
その余波を受けてかつての属国は各地で独立し、古代オリエントは乱世の時代に突入しました。
混沌とした政情の中、急速に頭角をあらわしたのが新バビロニア王国です。
オリエント支配に乗り出した新バビロニアの前に、エジプトが立ちはだかります。
そして両者は遂に、シリア北部のカルケミシュにおいて激突。
新興国・新バビロニアVS超大国・エジプト、果たして、この決戦を制するのはどちらだったのでしょうか?
カルケミシュの戦い前夜、アッシリアは滅亡寸前
古代メソポタミア地方からエジプトに及ぶ広大な地域を支配したアッシリア王国でした。
後継者争いによる国内の混乱と、度重なる異民族の侵入によってその勢力を衰退させていきました。
弱体化するアッシリアの間隙を突いて、属国が次々と独立を果たし、古代オリエント世界は各国が覇権を争う戦乱の時代を迎えることになります。
そんな中、バビロニア地方において、カルデア人の首長ナボポラッサルが新バビロニア王国を樹立します。
カルデア人はアラム人系の一派であり、アッシリアとバビロニア諸王国との戦いの中でたびたび活躍したとされる人々でした。
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新バビロニアを築いたナボポラッサルは、オリエント世界の支配を目指し、行動を開始します。
ナボポラッサルがはじめに目標としたのはや崩壊寸前となっていたアッシリアです。
ナボポラッサはイラン北西部の強国、メディアとの同盟を思い立ちます。
というのも、メディアはアッシリアからの重圧に苦しめられており、両者の利害は一致していたからです。
メディアの協力を得たナボポラッサは再度アッシリアを攻撃して、首都ニネヴェを陥落させます。
しかし、アッシリアの崩壊の喜びに沸く両国に、ある情報がもたらされました。
アッシリアの残党がニネヴェ陥落の前に密かに包囲網を抜け出し、シリア北部の都市ハランヘ逃れたというのです。
首都を陥落させたとはいっても、アッシリア王を名乗る者がいる限り真の勝利を勝ち取ったと言えません。
ナボポラッサは、今度こそアッシリアにとどめを差すべくアッシリアにとどめをさすべくハランへと軍を進めます。
ファラオ ネコ2世の誤算
ハランへと落ち延びたアッシリアの残存勢力は、アッシュール・ウリバト2世を王として掲げていました。
しかし、アッシリアは新バビロニア・メディア連合軍の攻撃を受ければひとたまりもない状態であった。
ただ、アッシリアにもまったく勝算がなかったわけではありません。
アッシリアは大国エジプトからの援軍を最後の頼みの綱としていたのです。
当時のエジプトは、ナイル河流域からシリア地方にかけての地域を治下に置き、実はそれまでアッシリアの属国に下っており、ようやく独立を果たしたところでした。
アッシリアがハランで敗北すれば、次に狙われるのがエジプトであることは目に見えています。
そう考えた時のファラオ、ネコ2世は、ハランへ遠征軍を送り込む決断を下した。だが、エジプト軍の行軍はすんなりとは進みませんでした。
それはエジプト軍がメギドの丘へと辿り着いたときでした。
エジプト軍の前にユダヤ軍が立ちはだかったのです。
『旧約聖書」「歴代誌」によれば、ネコ2世はユダヤ王ヨシュアヘ戦う意思のないことを伝え、アッシリアへの道を開けるよう求めたと言われます。
しかし、ヨシュアは頑なにエジプトとの戦いを求め、両軍の戦闘の火蓋が切られます。
メギドの丘におけるこの戦いはエジプト軍の圧勝に終わり、ネコ2世は再びハランへの進軍を開始しあます。
しかし、この戦いでネコ2世の計算は完全に狂ってしまいました。
なぜなら進軍に手間取るうちに、すでにハランではアッシリアの残党が新バビロニア軍に包囲、職減されてしまっていたからです。
予想を上回るはやさでアッシリアが滅ぼされてしまったことで、ネコ2世はさらに新バビロニアヘの警戒を強めました。
今、新バビロニアを抑えておかなければ、奴らはエジプトへと進軍してくるにちがいない。
ネコ2世は自国の脅威を取り除くため、そのまま新バビロニアと刃を交える決意を固めたのです。
カルケミシュでの激突

カルケミッシュの戦い:左がネコ2世率いるエジプト軍、右がバビロニア軍/Wikipediaより引用
アッシリア滅亡の後、エジプト軍は行く手をふさぐ新バビロニア軍を撃退しながら、ハランを目指し北進をつづけました。
エジプトの急進に、新バビロニアは大いに慌てることになり、しかも幾度となく送り込んだ軍は敗北を重ねることに…
老齢に達していた国王ナボポラッサルは、限界を感じたのか、全軍の指揮権を息子のネブカドネザル2世に譲り、自らは首都バビロンへと身を退きました。
父に全権を委ねられたネブカドネザル2世は、優れた軍才の持ち主だったようだ。彼は、すぐさま兵を集めて戦闘態勢を整えます。
エジプト軍を向かい討つべく定めた場所は、ハラン西方の都市、カルケミシュ。
そしてここに戦いの火蓋が切られました。
紀元前605年、古代オリエント屈指の強国同士がカルケミシュにおいて激突します。
その戦争の詳細は資料に乏しく明らかになっていませんが、近年の発掘調査によって戦いの痕跡が発見されたち言われます。
カルケミシュの遺跡に残っていた建物を調べたところ…
その壁を調べたところ、その壁や戸など至るところに無数の青銅や鉄製の鏃が突き刺さっていました。
また、この調査によって、この地には先にエジプト軍が駐屯しており、そこへ新バビロニア軍が攻撃を仕掛けて、戦いの火ぶたが切られたとの見方もありました。
いずれにせよ、この激戦を制したのは新バビロニアです。
『旧約聖書』の「エレミヤ書」にも、ネブカドネザル2世がネコ2世率いるエジプト軍を破ったとあります。
同じく「列王記」においても、エジプトの王が再び国から出てくることはなかったと記されています。
カルケミシュで勝利、ネブカドネザル2世の栄光
カルケミシュでの勝利により勢いに乗るネブカドネザル2世は、敗走するエジプト軍を追撃しながら、シリア地方へと侵攻していきます。
古代オリエントの覇権を掌握する日も近い、そう思われた矢先のことでした。
ネブカドネザル2世のもとに父王ナボポラッサ急死の方が届きます。
突然の訃報によって、ネブカドネザル2世は急遽バビロンへと引き上げ、父の後継者となります。
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バビロニアの王となったネブカドネザル2世は、改めてシリア地方に遠征し、新バビロニアは繁栄をきわめていきました。
一方、戦いに敗れたエジプトは辛うじて本国の領土を保ちました。
シリア地方への影響力に、この時代は王が頻繁に交代する不安定な時期に、あたり内憂も抱えてもいる状況です。
それでも、シリア地方の国々の反乱を扇動するなど復権を諦めませんでしたが、計画がことごとく失敗に終わります。
結局は東方への勢力拡大を断念することになります。
こうしたアッシリア滅亡後の動乱は沈静化に向かいました。
以後、オリエント世界は新バビロニア、メディア、エジプト、リディアの四大勢力が拮抗するようになります。
そして、この軍事バランスを決定づけたのがカルケミシュの戦いであったと言えるでしょう。