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人類史上、古代エジプト人ほど墓造りと死者の埋葬に情熱をかけた人々はいないでしょう。
古代エジプト人にとって肉体の死は生命の終わりではありませんでした。
むしろ、永遠の命を獲得するための通過点と考えていました。
墓を生前に準備し、手間をかけて遺体をミイラにしたのは、死後の世界でも現世と変わらない人生を続けていくために行われたものでした。
この古代エジプト文明の独特な死生観。
実は古代エジプト人の世界が投影されたものでした。
古代エジプト人の霊魂に対する3つの形
命ある者は必ず死を迎えます。
幸福だった者も苦しみの中に生きた者も、人は皆肉体の死によって人生を終わります。
人が死んだらどうなるのか?この永遠の問に挑戦するため、多くの宗教や思想が誕生することになります。
しかし、古代エジプト人の来世への考え方は今までのどの思想とも似ていない者なのです。
古代エジプトの国土はナイル川の定期的な氾濫によって、苦労せず土地が肥え、豊穣な環境であったと言えます。
また砂漠と海に囲まれていることから、外敵からの侵入も受けることは少なかったです。
毎年おなじ季節に増水しては乾いていく土地、
毎日空を横切る灼熱の太陽などなど、こうした人智の及ばないし自然の恵みを享受しながら、日々の生活を送っていました。
酒を飲み、歌や踊りに興じて現世の喜びを謳歌する享楽的な暮らしぶりで、耐え忍ぶ生活というものではなかったようです。
ただし、楽観的な古代エジプト人でしたが、決して死を恐れていたわけではありません。
それはナイル川や太陽と同様に自然の摂理であり、抗えないものとされていました。
死を生きているうちに周到に準備することで、死後も喜びに満ちた生活を継続できると信じていました。
古代エジプト人は、人が死ぬと遺体から霊魂が離れると考えていました。
この霊魂に対して、古代エジプト人は3つの形があると見なしていました。
1つは我々の抱く霊魂の概念に近い「バー」と言われ、人面の鳥の姿に近いで表現されています。
死後も個人の人格的な特徴を受け継ぐとされ、渡り鳥のように墓の外を自由に飛び回ることができる特徴を持ちます。
そして夜には墓に戻ってミイラの胸で休みます。
また「カー」は生命力を擬人化した精霊のような存在で、人の誕生とともに神が創造し、肉体とともに生き、死後の墓の中で生き続けます。
カーは食べ物や水がないと飢えて弱ってしまう……
そのため、人々はパンやビールなどの供物を捧げたり墓の壁に食べ物の絵を描いたりしました。
死後、肉体をはなれたバーとカーが、冥界の審判を受けて永遠の生命を得、再び合体すると「アク」という存在になります。
古代エジプトの人々はアクとなり、美しい楽土で暮らすことを究極の幸福と考えていました。
天国か地獄か…オシリスの審判
霊魂が「アク」になれるかどうか判断するのはオシリスという神様です。
冥界の王オシリスの神話は古代エジプトの死生観の根幹となっています。
創世の神々の子であるオシリスは善政を行う王ですが、あるとき、王座を狙う嫉妬深い弟セトの陰謀によって殺害されることになります。
切り刻まれ、エジプト全土にばらまかれてしまいます。
オシリスの妻のイシスは夫の遺体を拾い集め、これをつなぎ合わせてミイラを作り、得意の魔術でオシリスを蘇らせます。
ほどなくイシスはオシリスとの間にホルスを授かります。
オシリスとイシスの子であるホルスは生者の王として、オシリスは死者の王として冥界に君臨することになります。
死者の王としてのオシリスが崇められるようになったのは、今から4000年以上も前の古王国時代に遡ります。
当時すでに王たちは死ぬとオシリスの名を冠されて、遺体はオシリスの神話に倣いミイラとして埋葬されるのが通例となっていました。
時代が下がるとオシリス信仰は民衆にも浸透し、墓や棺の内部にその神話が象徴的に表現されるようになっていきます。
「西方の人」とも呼ばれるオシリスの支配する死者の土地は、ナイル川の西岸になります。
これはどこか西方浄土のイメージとも結びつき、古代エジプトの死者は冥界に旅立つときにまずナイル川を東から西へ渡ります
この死後は川を渡るという発想はいわゆる「三途の川」をはじめ、世界中の神話に共通しています。
古代エジプトのこの死生観はその後の宗教や思想に影響したと考える学者がいます。
冥界王オシリスのもっとも重要な役割は、死者の冥界に受け入れるにふさわしい否かを見定めます。
古代エジプトの人々は「オシリスの審判」と呼び、これを恐れてました。
死者はまず真理の広間で自らの善行を訴えます。
「私は奴隷の罪は主人に告口しません、子供の乳を奪っていません。」
その後、全土の地方神を従えたオシリスの前に進み出て、太陽神ラーの「審判の秤」に自らの心臓をかけます。
心臓を載せる役は冥界の守護神で犬頭のアヌビスと知恵の神のトト、その脇には不適格の人物の心臓を食べる猛獣アムムトが控えています。
そして、審判の秤の反対側の皿に載られるのは正義の象徴「マアトの羽」になります。
天秤が釣りあえば晴れてオシリスの国に迎えられますが、ウソや不正が発覚すると…
たちまち心臓を猛獣に食べられてしまい、死者の復活のチャンスを失って霊魂は永遠に闇をさまよう運命となります。
死者の書と古代エジプトの死生観
オシリスの審判は死者が試される最大の難関ですが、そこに至る旅もまた魔物と罠が潜む油断のならないものでした。
そこでオシリスの国に至るまでの道案内と唱えるべき呪文を記した手引書が墓の中にともに埋葬されました。
これがいわゆる「死者の書」と言われるものです。
19世紀半にドイツの学者にプリシウスが葬送用の呪文集を発見して「死者の書」と呼んだことに由来する学術上の通称です。
古代エジプトでは「ぺル・エム・フル」という日もとに出現するための呪文と呼ばれました。
「死者の書」は死者の旅の途上で使う呪文や祈祷文、賛歌、神話的な場合や遺体の処理法などを述べた文言や挿絵が描かれています。
呪文の総数は、現在発見されているものだけで200章ぐらいあります。
その源流は。古王国時代の第5王朝から第8王朝の間に建造されたサッカラのピラミッドに刻まれた「ピラミッド・テキスト」
他には第11王朝、第12王朝時代の棺に記された「コフィン・テキスト」の文章などがその源流と思われます。
「死者の書」が普及したのは、新王国時代の第18王朝の頃になります。
その組み合わせなどには禁忌やルールもなかったようで、作成者の神官は依頼人の財力や身分、要望に合わせて自由に編集していたようです。
巻物は棺の中や専用の壺に納められ、呪文の一部は棺やミイラの包帯・護符の裏側に記されました。
その内容は、朝の太陽のごとき再生を唱える、能動的なものだったようです。
古代エジプト人にとっての恐怖
古代エジプト人が向かう冥界の一瞬の暗闇のすぐ先には、幸福な来世の扉が開かれていました。
永遠の命を得た死者は、望むものに転生することができました。
黄金の鷹や不死鳥、美しいハス、ヘビやワニに変身する呪文も存在します。
また神となり、供物を存分に楽しむことも、自らミイラに還えることできます。
さらに太陽神ラーの船に乗って平和な楽園「セケト・ヘテぺト」に渡り幸福に暮らすのも、選択は自由でした。
死後の楽園では、現世以上の安らかなで平和な日々が約束されていました。
古代エジプト人にとって本当の恐怖とは、来世における2度目の死です。
永遠の命と自由を得た霊魂も墓が暴かれてミイラが損壊すれば帰るべきすみかは失われてしまう…
墓が暴かれてミイラが損壊すれば帰るべきすみかは失われてしまいます。
とくにファラオの場合には、オシリスのごとく再生するためにミイラは死守されなければなりませんでした。
来世の暮らしも日々の祭儀や供物が捧げられることで円滑になると考えられました。
さらに、王亡き後の遺体や神官たちは供養をし続けることが必要とされていました。
こうして、墓やミイラの作り方、葬儀や埋葬の儀式が複雑化し微細な決まり事が増え、異文化の民には理解不可脳な葬祭文化が発展します。
もっとも、こうした供養がきちんと行われたのは王家が力を誇った新王国時代の一時期だけでした。
さらにほとんどの王墓は墓泥棒に荒らされ、今までミイラの行方が分からない王墓も少ないです。
古代エジプト人の死生観はどこまでも楽観的に天真爛漫なものでした。
それは古代エジプト人が豊かで満ち足れた「生」を謳歌したからこそ生まれた「死」の姿だったと言えるでしょう。
『参考文献』
石上玄一『エジプトの死者の書―宗教思想の根源を探る―』人文書院 1980
酒井伝六/鈴木順子『死の考古学―古代エジプトの神と墓―』法政大学出版局 2009
村治笙子/片岸直美『図説エジプトの「死者の書」』河出書房新社 2016