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エジプトでもっとも古くからある職業のひとつ
それが泥棒…「墓泥棒」
エジプト中の墓という墓は、すでに古代エジプト人たちによって暴かれていました。
盗掘におびえながらも死者のために墓を造り、財宝を納めた富を持つものと、
死者や神も恐れることなく、財宝を得るため盗掘を試みる墓泥棒たち。
隠そうとする者と暴こうとする者たちの攻防戦…
それは古代エジプト人たちの実に人間的な素顔が浮かびあがってくる。
死者への思いを冒涜する墓泥棒
古代のエジプト人は永遠の生命を信じる人々でした。
彼らにとって墓とは、肉体をミイラとして保存し、現世に再び戻る日を待つための家です。
富める者は自分の墓をどうしつらえるか生涯思い悩み、身分と財産にふさわしい準備を整えました。
いよいよ死のときが訪れると遺族はミイラ処理した遺体を納めた棺とともに、死後の暮らしを約束する財宝に運び入れて荘厳な儀式を行います。
そして、墓の入口を固く封印しました。
しかし、古代エジプト人の幼想は破られてしまいました。
なぜなら古代エジプトの墓は、こうした埋葬習慣が一般的となった5000年以上前の時代から、無数の墓泥棒によって暴かれ、略奪されてきました。
現世の私欲に生きる者たちにとって、それは無防備にも等しい「幸運のお宝」でした。
古代エジプト研究は、この地独特の死生観が育んだ墓と葬祭施設の調査によって解き明かされてきました。
世界の博物館に現存するエジプトの至宝の数々は、近世の探検家やエジプト学者たちに見いだされたものです。
これも本来の遺物のごく一部にすぎません。
墓泥棒が探りあてた墓の中は、すでに過去数千年の間に墓泥棒にすっかり荒らされました。
そのため、副葬品が残るどころかミイラさえも無残に散らばる状況でした。
遺跡発掘やパピルス文書の解読により明らかになってきた古代の墓泥棒という視点から、あまり表立って語られることはないエジプト史の一面を見てみましょう。
ピラミッドと盗掘の歴史
古代エジプトの建造物のうちでもっとも盗掘の標的になったもの、それこそがピラミッドになります。
王の絶大な財力を誇示するこの偉大な建造物に、莫大な財宝が隠されていると考えられていました。
ピラミッドが集中的に造られたのは、紀元前27世紀から500年ほどつづいた古王国時代のことを指します。
有名なギザの三大ピラミッドが造られましたが、明らかに盗掘の痕跡を残すものも多いです。
中には盗掘時の無謀な堀り方によってピラミッド自体が崩壊したものもあります。
ピラミッドの設計者たちも、盗掘を予想して巧みな対策を講じていました。
板石で通路を遮る幾度もの落とし戸や、石塊を斜坑に滑らせて「栓石」をはめ込む方法で、最後に通路をふさぎながら外に出ました。
入口を巧妙に隠したり、隠し部屋や偽の回路を複雑に巡らせる工夫も採用されました。
とはいえ、秘密保持のために設計者や工事人を生きたまま閉じ込めたり、侵入者の退路を断つといったような仕掛けは未だ発見されていません。
効果的な明かりや爆薬もなかった古代の盗掘者たちでも、時間と手間さえかけなければピラミッドの内部に到達することはできたのです。
もっとも有名なクフ王の大ピラミッドへは、9世紀にカイロのアラブ人総督アル・マムーンが内部への侵入坑をはじめて聞いたとされます。
ただ、実際にはもっと古い盗掘坑が存在します。
マムーンはアラブ世界に伝えられていたピラミッドの「秘密」を求め、玄室への下降通路を発見しましたが、全く財宝を発見することが出来ませんでした。
「大ピラミッドにあったはずのクフ王の副葬品は、古代の盗作によりすべて持ちさられた」という説を提唱されました。
その人物が20世紀初頭のイギリス人考古学者ピートリーです。
その推察によると、大ピラミッドが建造されておよそ500年後…
古王国と中王国時代の間の政治的内乱期に最初の盗掘が行われたと言われます。
その後の再三の調査にもかかわらず大ピラミッドから何も遺物もなく、現代では大ピラミッドは初めから空っぽだったのではないかとの説が優勢という話があります。
王家の谷の盗掘者たちとは?
頑強なピラミッドも乱世には盗掘されることになります。
そこで、テーベの州候や貴族たちは対岸の丘陵に墓や葬祭殿を造るようになりました。
ピラミッドが造られなくなってからおよそ200年後、新王国時代に入るとテーベ西岸一帯に、ファラオたちの岩窟墓が建造され始めます。
これが王家の谷です。
王家の谷は侵入口が狭く警備しやすいことから、王家の墓所に選ばれた土地でした。
新王国時代には葬祭殿で毎日供養の儀式が執り行われ、神官たちや王家直属の警備兵も常駐していました。
建設現場には労働者を管轄する役人や書記たちが住み、墓堀り職人たちも谷の入口に発展した居住区で活気ある都市生活を営んでいました。
またこの頃には一般庶民も墓造りが自由に許されるようになります。
さらに、テーベの神官や役人、財を得た中流市民も王家の谷周辺に墓を築くようになります。
新しい墓を掘れば別の墓にあたるほどの過密状態となっていました。
好景気だった新王国時代も末期になると大規模な建設工事が減り、余剰人員がだぶついて生活困窮者が増えることになります。
墓堀り職人の村は無法地帯となり、日々の生活のため盗掘する人々も増加していきます。
とくに辺鄙な場所の昔の墓や小規模な一般人の墓は墓泥棒の格好の獲物でした。
盗掘の実行犯は墓堀り工や石工、ミイラ作りにかかわる職人たちで、彼らは自分がかかわった墓の様子を覚えていました。
封印した直後や場合には埋葬前には盗み出す場合もあります。
盗掘墓の中には横壁からとなりの墓の玄室へと正確に掘り進んだ計画的な盗掘坑もあったようです。
「墓泥棒のパピルス」は新王国時代の大混乱期、第20王朝当時に起こった王墓盗掘事件の自白や裁判を記録した文書なのですが…
ある石工職人の自白から墓泥棒の実態を伺うことができます。
彼らは銅製の道具で道を掘り、ろうそくや木棺の切れ端を燃やして光としていました。
棺を焼くのは黄金を引きはがすのに非常に有益でした。
墓泥棒たちの目的はもちろん貴金属や宝石、新しい墓の場合には布や香水などでした。
その墓でもっとも価値がある品物はミイラの胸の上に置かれており、ミイラを飾る宝飾品は真っ先に狙われました。
またミイラの布もその場で外され、包帯の間には金銀の護符や宝石、装飾品が大量に挟み込まれていました。
この護符には金銀の板に呪文が刻まれたものや幸運の虫スカラベをかたどった小さなものが多いです。
お守りとして庶民にも手の届く人気の品でした。
実入りのありそうな墓の裏情報を握る外国人や盗品を売りさばく闇商人も暗躍していました。
盗品の腕輪や首飾りが役人への賄賂として渡されたりして、墓泥棒たちは円滑に盗掘を進めてきました。
王家の墓を荒らした者は、鼻や耳を削がれ、杭に串刺しにされるという処罰が下さされました。
しかし、滅多に捕まることはありませんでした。
そもそもこの『墓泥棒のパピルス』の犯人が捕えられたのも、王家の谷の市長であり、墓地警備局長とテーベ市長との権力抗争が発端です。
王家の谷の役人が盗賊たちと癒着していることをテーベの役人が嫉妬したことから告発したのが原因です。
この頃は政府も、墓地管理選任の役人が盗掘の状況を監査するなど、重要な墓に関して厳重な管理をしようと努力したようです。
すでに何度も侵入された形跡のあったツタンカーメンの墓も数度にわたり検分され、この頃に再封印が行われています。
しかし、第20王朝以降になると谷の警備も手薄になります。
そのため、後代のファラオたちは別の場所に埋葬されるようになりました。
墓泥棒の考え
古代エジプトの富める人々が豪華な墓を築いたのは、死後の安寧を願う宗教観によるものでした。
彼らはこの埋葬の習慣を王朝滅亡のときまで、隠し場所に汲々としながらも頑迷につづけたのです。
それにしてもなぜ、みすみす盗まれる財宝を墓に納めることをやめなかったのでしょうか?
新王国時代のファラオや貴族たちにとって、墓とは使い道に困った財産の保管庫としても機能していました。
貨幣も銀行もない時代に富を蓄えておくことが困難でした。
また庶民にとっては墓の地所や埋葬する権利は今では「不動産」のようなものでした。
彼らは泥棒対策には頭を悩ませましたが、長い時代を経て身についた習慣を捨てようとはしませんでした。
泥棒たちにとっては、まさにそこが狙い目でした。
古代エジプトには鍵という考えを持っていなかったと言います。
王墓の棺も容易に聞かない石組が工夫されていましたが…
泥棒たちは石棺の蓋を叩き割ってその中身をやすやすと持ち去ってしまいます。
王の名を押印した封印も侵入者を呪う呪文も、富める者の幸運にあやかろうと執拗に侵入を試みる盗掘者たちには何も効き目がありませんでした。
古代エジプトは、その悠久の歴史の中で、複雑化した宗教観が作られ、独自の文化を築きました。
盗掘もまた、古代エジプト文明でしか生まれない文化であったと言えるでしょう。
『参考文献』
アルベルト・シリオッティ『王家の谷―テーベの神殿とネクロポリス ー』河出書房新社 1998年
リチャード・ウィルキンソン他『図説 王家の谷百科―ファラオたちの栄華と墓と財宝―』原書房 1998年
桜井清彦『世界の大遺跡―ナイルの王墓と神殿―』 講談社 1986年
村治笙子・松本弥他『図説 古代エジプト2ー王家の谷と神々の遺産―』河出書房新社 1998年