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エジプトを代表する建造物のひとつであるギザの大スフィンクス
体が動物で頭が人というユニークなこの巨像は、カフラー王にピラミッドの付属している建築物と考えられていましたが…
実はこの説は多くの疑問があげられています。
一体、ギザの大スフィンクはいつ、だれが、何のために造ったのでしょうか?
大スフィンクスはピラミッドの守護神ではない?
エジプトと言えば、ギザの三大ピラミッドを思い浮かべると思います。
そのピラミッドに並んで有名なのが、ギザの地に建つ大スフィンクスでしょう。
体が動物で頭部が人という特徴的なこの巨像は全長57m、高さ20mもあります。
石灰岩の丘を掘って造られているため、その周囲はほかの場所よりも低い位置にあります。
そのため砂が溜まりやすく、大スフィンクスは長い間、砂に埋もれてきました。
古代ギリシャの歴史家ヘロドトスが『歴史』の中で大スフィンクスの記述していないのは、
大スフィンクスが頭まで砂で埋まっていたため、見えていなかったと言われています。
三大ピラミッドが建築されたのは、古王国時代の第4王朝、紀元前2550年頃と考えられて
おり、真ん中にあるカフラー王ピラミッドの付属物として、同じ時期につくられたとされています。
カフラー王のピラミッドの参道はその付属物である河岸神殿につながっています。
そして、河岸神殿のとなりには大スフィンクスのスフィンクス神殿に隣接して、参道の横に造られています。
一般的にスフィンクスは建造物の守護者として、参道や入口付近に配置されることがよくあるパターンです。
そして大スフィンクスも、ピラミッドの守護者として参道でにらみをきかせているように思えます。
しかし、大スフィンクスは本当にピラミッドの守護者なのか、ピラミッドの付属施設として同時代に造られたのか、
これについては多くの疑問があるのです。
大スフィンクはピラミッドより先に誕生?
ギザの大スフィンクスほど巨大なものは他にもないが、古代エジプトの神殿などには、その建造物を守護する意味で配置されていたスフィンクスがポピュラーです。
しかし、他のスフィンクスが守護目的で作られているからと言っても、大スフィンクスも同様の意味を持っていたとは限りません。
なぜなら、これらの間には明らかに異なる点があるからです。
本来、建造物を守護するスフィンクスは、2体一組であることが通例だからです。
例えばカルナック神殿とルクソール神殿を結ぶ参道には、お互いに向き合った何組ものスフィンクスはがずらりと並んでいます。
しかし、大スフィンクスはただ1体だけ存在しています。
このことから、大スフィンクスは他のスフィンクスとは異なる理由で作られたと考えられます。
またカフラー王のピラミッドの付属物であるという説にも疑問があります。
その根拠となっているのが、ピラミッドのから伸びる参道です。
メンカウラー王のピラミッドの参道は、まっすぐ東へ伸びていますが、これに対してカフラー王のピラミッドの参道は斜めに伸びて、大スフィンクスの脇を通っています。
これは左右対称で建築物を造る古代エジプト人の考えから外れています。
もし、カフラー王のピラミッドと同時期に大スフィンクスが造られたのであれば、なぜ、斜めの参道になったのか?
さらに並んで、立つ河岸神殿とスフィンクス神殿にも不自然な点があります。
ピラミッドとスフィンクスがそれぞれに神殿を持っていること自体、これらが別々に造られたためとも考えられます。
しかし、仮にこの2つが計画的に同時期に造られたとすると、さらに不可解な問題が生じます。
それは、2つの神殿の作り方の違い、とくに床面の高さの違いがあり、スフィンクス神殿の方が河岸神殿よりも床面が低いという点です。
古代エジプトの建築では、後の時代ほど床面を高く設計する傾向が見られます。
そのため、同時代に造られた建築物どうしで床面の高さが異なる点は、意図的に行われたと見るのは難しいでしょう。
おそらく、この二つの神殿は同時代に造られた神殿ではない可能性があります。
時期としては、スフィンクス神殿の方が古く造られたと思われます。
以上の点から大スフィンクスは、カフラー王のピラミッドが造られる前から存在していた…
そして、ピラミッドに付随しない建築物であると考えられています。
大スフィンクスは新石器時代に造られた?
大スフィンクの年代を巡ってはさまざまな説がありますが、その中で地質学見地から謎を解く説があります。
近年、大スフィンクスの地質学的調査が行われた際、その体と周りを囲む石壁についた浸食痕が注目されました。
そこには風化だけでは成立しない波打つくぼみや裂け目などが見て取れました。
これは長期間の豪雨によるものであれば説明できる浸食痕です。
しかし、エジプト王朝時代が始まった紀元前3000年頃には、雨があまり降らない気候であったはずです。
以上の点で、大スフィンクスは少なくても新石器時代の降雨期である紀元前7000年~紀元前5000年に造られたのではないかと言われているのです。
この調査を行った地質学者は…
「この地質学の発見で、文明の起源への考え方と合わないなら、その考えを見直す時期に来ている」
と主張しました。
しかし、この説の根拠としている浸食痕には別の考えもあります。
それは浸食痕は塩化現象によるものという見方です。
塩化現象とは、地下水が石灰岩に染み込み、昼と夜の温度差で蒸発する際に、石灰岩中の塩分が結晶化することで起こる破壊現象をいいます。
もし、塩化現象であれば、新石器時代に造られたという考えは成立しません。
そして文明が発祥した時期を考えれば、この説は受け入れがたいでしょう。
星座から導く大スフィンクスの年代
しかし、地質学の見解よりもさらに遡るという話があるのです。
実は三大ピラミッドのうち、メンカウラー王のピラミッドはクフやカフラーのピラミッドより小規模で配置もずれています。
これはオリオン座の3つの星の配置を真似たと言われています。
地球から見える天体の位置は、地軸の傾きによって少しずつずれますが、これを再現するにはコンピューターで計算することが可能です。
そこで天の川や天空の星々と地上の数々のピラミッドやナイル川の配置が同じになる時代を検証した結果…
なんと紀元前1万500年の星空と一致したのです。
さらに大スフィンクスが見つめる東の空にはスフィンクスと同じ姿の獅子座があるのです。
以上のことから大スフィンクスは1万2500年前に造られたという説が誕生しました。
しかし、こうした説は珍説であるという認識を持つべきかもしれません。
そして、こうした珍説には反論もあるのです。
まず、星空と地上との配置についてですが、実は3つ星以外の星は一致していません。
さらに獅子座になどの星座の考えがエジプトに入ってきたのは、紀元前300年よりも後になります。
果たして、1万年以上も前に今と同じような星座の蓋然があったのでしょうか?
やはり、スフィンクスが古代エジプト文明誕生以前に造られたというのは疑問が残ります。
スフィンクスは太陽信仰の象徴?
大スフィンクスの年代については、文明の発祥の考えとはかけはなられている説が存在していました。
「スフィンクス」とは実はギリシャ時代になってからの呼び名で、もともとは「シェセプ・アンク」と呼ばれていました。
「シェセプ」は姿とか形という意味で、「アンク」は再生と復活をつかさどるものを指します。
ここから「シェセプ・アンク」を「生ける像」と訳すこともありますが…
これは「アンクの姿をする者」と捉えると、そこには太陽信仰とのつながりを見出すことができると言われます。
というのも、アンクは太陽神に関する事柄であるためです。
アンクとは、太陽神が西に沈むときの呼び名であり、沈んだ太陽が翌日再び昇って来ることから、再生と復活の神とされていたようです。
スフィンクスがその名の通りアンクの偶像として造られたとすれば、それは太陽信仰から生まれたものと考えられます。
よって、大スフィンクス自体が独立した信仰の対象だったということになります。
古代エジプトの太陽信仰の中心地は、ギザから約40kmが離れたヘリオポリスという宗教都市です。
ヘリオポリスは第3王朝の終わり頃に力をつけ始め、首都メンフィスと勢力を争っていました。
古王国時代の宗教都市は、となりの都市との境界に石を置く習慣があり、勢力がましたヘリオポリスは、その代わりに神殿を造るだけの力をあったと考えられます。
そして、その勢力範囲を誇示する意味で、西端にあたるギザに神殿と大スフィンクスを造ったのではないか…
これが大スフィンクスを造った理由と考えられています。
この説から考えれば、スフィンクスは太陽信仰が強まってきた4700年前から三大ピラミッドが造られた4550年までの間ということになります。
大スフィンクスが三大ピラミッドよりも古いとする説は、今後の研究の発展によって、謎はさらに明らかにされていくかもしれません。
『参考文献』
ミロスラフ ヴェルナー『ピラミッド大全』法政大学出版局 2003
吉村作治『痛快! ピラミッド学』集英社インターナショナル、2001
大城道則『ピラミッドへの道―古代エジプト文明の黎明―』講談社2001年
大城道則『図説 ピラミッドの歴史』河出書房新社 2014年
吉村作治『痛快! ピラミッド学』集英社 2001年