エジプト 古王国時代

ギザの三大ピラミッドー古代エジプト最大の建造物の謎と魅力―

もはやエジプトのシンボルと言え、古代エジプト好きの方であれば、一度は行ってみたい!などなど

そう魅了されることは多いことでしょう。

そこで今回は「いったいどのようにしてピラミッドを建造することが出来たのか」、「ピラミッドは本当に墓だったのか」

などなど、ギザのピラミッドについての謎に迫っていきたいと思います。

ギザの三大ピラミッドとは?

クフ王の大ピラミッド/Wikipediaより引用

エジプトのナイル川西岸、ギザの台地には、世界で最も有名な古代遺跡があります。

それはクフ王、カフラー王、メンカウラー王が建設したとされる「ギザの三大ピラミッド」。

中でも最大のものがクフ王の「大ピラミッド」で、基底部の長さは平均して230.42mでわずか20㎝の誤差の範囲で正方形を成し、高さは146.6mという高さを持ちます。

この大ピラミッドを造ったクフ王は古代エジプトの古王国時代(紀元前2686年~紀元前2181年)の第4王朝(紀元前2575年~紀元前2465年)第2代のファラオになります。

クフ王の父スネフェル王が築いた屈折ピラミッド:真正ピラミッドになるまで多くの試行錯誤があった/Wikipediaより引用

クフ王の1代前でクフ王の父であるスネフェルはエジプトではじめて正四角錐のピラミッドである「真正ピラミッド」を建造した人物です。

スネフェルは3つのピラミッドを建造しており、試行錯誤する中で建築技術を飛躍的に向上させ、真正ピラミッドを建築するノウハウを開発させたと考えられます。

またスネフェルは、歴代のファラオの中でおいても、体積においても最大のピラミッド建築を作り上げたファラオとして評価されています。

[kanren postid="125"]

クフ王は父王から真正ピラミッドの形式を継承したものが大ピラミッドと考えれています。

しかし、クフ王は単に偉大なスネフェルのあり方を受け継ぐだけではありません。

スネフェルのピラミッドよりも優れたものを建造することで、父スネフェルの功績を超えて行こうと挑戦します。

その挑戦こそが彼は非常に野心的な建築事業を構想します。

それが今までに無かった巨大な真正ピラミッドであるギザのピラミッド建築になります。

ギザの三大ピラミッド建造の候補地

ギザの台地に立つ3大ピラミッド/Wikipediaより引用

クフ王はまず前人未踏の大工事を行う場所を決める必要がありました。

その条件として、ナイル川の西岸であることです。

これは古代エジプトで盛んだった太陽信仰に関係して、ピラミッドは太陽の沈む西側の地に造られる必要がありました。

次には地形的な理由が挙げられます。

ナイル川の東岸は水面よりずっと高い地形であるため、ピラミッドを建設するにあたって不向きな地形でした。

それに比べて西岸は資材を運ぶのに非常に便利な地形であり、資材の運搬はナイル川の氾濫した時期に船を使って建設が行われたと考えられます。

工事現場まで冠水していれば、そこまで船を着けることができるので、東岸の地形であると高さが障害となってしまうため、西岸を選ぶことになったのでしょう。

ピラミッド建造の候補地としてナイル川西岸が選ばれたのは地形的な側面を強いと思われます。

その他の条件では、ナイル河岸からさほど遠くない場所で、氾濫原よりも高いところにあること。

さらに、政治的、社会的な理由として、首都メンフィスから遠くないことなども挙げられるでしょう。

[kanren postid="357"]

また、しっかりした頑丈な岩盤があり、広く平らな台地がありことのその要因です。

これらを満たす候補地として、クフ王はギザの地でピラミッド建設に励むことになります。

ギザの三大ピラミッドはかなり精密

カフラー王のピラミッド:4辺をほぼ正確に東西南北に向けている/Wikipediaより引用

大ピラミッドはその4辺をほぼ正確に東西南北に向けているという特徴があります。

その誤差はわずか3分6秒という正確さ…

また基底部の高低差わずか2.1㎝の誤差で水平に築かれており、驚くべき正確さと言えます。

4000年前も前に古代エジプト人はどうやってここまで正確な建築を行えたのでしょうか?

それについては詳しくは解明されていませんが、少なくともピラミッド建設に際して、使ったと思われる方法がいくつか明らかになっています。

まずは、そのまま水平な基底部を作る際に水を用いたと考えられています。ピラミッドの底となる土地全体に、網目状の浅い水路を作って、そこに水を張ります。

そして、その水面の高さに印をつけて、その位置まで地面を削ってならします。

水面から一定の深さになるように水路の溝を削り、それに合わせて他の部分をならしたと思われます。

いずれにしても、水を利用して水平な基底部を造ることは可能だったと考えられます。

正確に方位を決める際は、太陽や天体を用いて決めたと思われます。

太陽を用いる方法は、まず地面に垂直に棒を差し、そして午前中のあるときに、その影の先端に印をして、次に棒を中心に、その影の長さを半径とした円を描きます。

午後になって棒の影がその円まで達したら、その点と午前中に影が指した点との中間点をとり、それと棒を挿した点とを結べば南北が決まるような仕組みになっています。

天体を用いる方法では、上から見て円形に壁を組み、その上端を水平にして、その円の中心から、ありひとつの星を観測します。

その天体が壁の上端から昇る点と沈む点を捉え、そこから垂直に地面に印をつけていきます。

その後は太陽の時と同じように、この2点の中間点と円の中心を結ぶことで正確な方位を掴むことが可能と考えられます。

ギザの三大ピラミッドの建築方法とは?

古代エジプトのノミなどの道具/Wikipediaより引用

では実際に、大ピラミッドはどのようにして建築されたのでしょうか。

その石材はナイル川の対岸の石切り場から切り出したと考えられ、作業も際は石鎚や青銅のノミ、木や青銅でできた楔などが使われました。

ピラミッドは石灰岩の他に、よりも硬い花崗岩や玄武岩なども使用されています。

これらの石材に対して、水や石膏と石英を混ぜた研磨剤とノコギリを使用したと考え、切り出された石材は、そりに載せて運搬されました。

ソリの使用は、その様子を乗せた絵が何枚も発見されています。

運搬の時はソリの下に木材で作ったソロを置くなどして、移動しやすくするなどの工夫がなされていました。

ある説では、ソリを引くルートに線路の枕木状に木の板材を並べ、それに土を塗りつけ、水をかけて常に湿った状態にしておくという方法があります。

こうすることで、ソリを滑らかに移動させることができ、この方法の痕跡はギザとは異なるピラミッド建築現場から発見されています。

牛での石の輸送/Wikipediaより引用

そして石材は、舟によって建築現場付近まで運ばれるのですが、問題なのはどうやって労働者たちは石材を積み上げることができたのでしょうか。

石材は平均2.5tもの重量があり、これだけのものをどのようにして147mの高さにまで積み上げたのでしょうか。

現在、ピラミッドは1段目より上の石材を積み上げるには、傾経路を用いたとする説が一般的です。

つまり、作業用のスロープを使ったと考えられます。

傾斜路には、ソリを移動させるためにレール状のへこみが作られたとする説もあり、このレールの内側は石灰岩の粉で塗装することで、ソリを滑らかに動かすことができたと言われています。

しかし、斜経路使用説は1つではなく以下のようなものがあります。

ジグザグ型・直線型・螺旋型の図/Wikipediaからの引用

  • 1つの面をジグザグ登るジグザグ型
  • ピラミッドに一直線に向かう直線型
  • ピラミッドの周囲を渦巻状に囲む螺旋型

以上の3種類が考えられています。

他にはこれらを複合的に用いたという説もあるが、その一方で直線型以外には考えられないとういう見解もあります。

螺旋型では、傾斜路を作るのにピラミッド本体の3倍にあたる資材が必要であり、ジグザグ型は、いちいち方向転換をする必要がある上に、一車線しか作れないため運び終わったソリが下せない……

そのため、どちらも妥当な考えではないものでしょう。

以上のことから直線型の傾斜路を用いた可能性が高いと考えられます。

クフ王の大ピラミッドの内部

クフ王のピラミッドの内部図/Wikipediaより引用

大ピラミッドの内部には3つ部屋があり、上から順に「王の間」(図10)、「王妃の間」(図7)、「地下の間」(図5)と呼ばれ、この3部屋はいずれもピラミッドの頂点の真下に位置しています。

しかし、なぜ3つも部屋があるのか、これらの部屋が何のために造ったのかは実はよくわかっていません。

建設途中で計画が変更されたためとも、反対に最初から計画されたものといわれています。

内部へ入るための入口は、北側に1つあるだけ。

この入口は9世紀にアル=マムーンというアラブ人が開いたもので、本来の入口はこの少し上にあり、中心部から東に約7mずれています。

さらに建築当時には石で塞いで外から分からないようになっており、大ピラミッドはもともと人が入れないように造られていたことが理解できるでしょう。

アル=マムーンが発掘した通路は下に向かう本来の通路につながっており、この高さは1.2m、幅1mしかない「下降通路」(図4)は約26度の勾配で下に向かっています。

その先にある「地下の間」は広々としており、高さ3.5m、東西14m、南北8.3mmあります。

しかし壁の造りなどは粗雑え途中で放棄されたのはないかともいわれています。

その先には狭い水路通路が掘られていますが、この通路は行き止まりになっているため、これも途中放棄された跡なのではないかと考えれているようです。

「下降通路」の途中には、上に向かう通路との分岐が存在しており、この中に水平な通路を進んだ先にあるのが「王妃の間」です。

東西5.7m、南北5.2m、天井は尖った合掌型で、高いところで6.2m。

東側の壁は高さ4.7m、底辺の幅が1.6mの上に向かうほどの左右の壁石がせり出した持ち出し構造の壁棚があります。

これは王の霊力を表す彫像を置く場所とも考えられています。

大回路(左)と王の間(右):王の間にはクフ王の石棺が残されている。/Wikipediaより引用

「上昇通路」(図6)の分岐をそのまま進むと突然通路が広くなり、ここを「大回路」(図9)と呼ばれる通路はあります。

8.5mの高さのうち2.3mは両側の壁が垂直で磨き抜かれた石灰岩で造られており、その上は石が7層に積み上げられ、上に行くほどに7㎝程度せり出した持ち出し構造になっています。

ピラミッドの内部にこれだけの空間が造られるのは驚きです。

「大回路」は「上昇通路」と同様の勾配で47mほど続き、その先にある「控えの間」(図11)をすぎると遂に「王の間」に到着します。

東西10.5mと南北5.2mで天井は平らで5.8mの高さがあり、ほかの空間と異なる点にはこの部屋と「控えの間」は全面が赤色花崗岩で造られている場所があります。

恐らく、この部屋の上には5層の屋根の裏のような空間があり、その一番上の天井もまた合掌型の建て方になっています。

この空間は王の間にかかる重量を軽減するための構造であると考えられ「重量軽減の間」(図10)と呼ばれていますが、本当に重量軽減の効果があるのかは疑問があるとされています。

ギザの大ピラミッドは王墓か?

ギザのピラミッドとスフィンクス/Wikipediaより引用

ピラミッドは王の巨大な墓と長い間信じられていました。

しかし、近年ではこの説が疑い始められています。

[kanren postid="672"]

ピラミッドが王の墓とされるのは2つの根拠があります。

1つ目はヘロドトスの著書である『歴史』の中でピラミッドは王墓と指摘していますが

『歴史』には伝聞された情報も多く、ピラミッドが墓であると述べているのも、ピラミッドが造られてから2000年後のエジプトの神官に聞いた話として記載させれています。

いわばヘロドトスの『歴史』について書かれていることはどこまで正確か全くわからないのです。

カフラー王のピラミッドの石棺:クフ王やカフラー王のピラミッドに石棺があるが非常に狭いものになっている。/Wikipediaより引用

2つ目は「王の間」の西の壁近くに、クフ王のものとされる石棺が存在することです。

しかし、この石棺は狭いことから、実は棺ではないのではないかという見解もあり、本当にクフ王が遺体に収められていたのかは疑問に思われています。

こうした石棺はほかのピラミッドからも発見されていますが、どこからも王の遺体は発見されていません。

さらにピラミッドからはひとつの副葬品も発見されていないことも疑問があります。

これには盗掘されたという見解もありますが、何ひとつ残されていないという点も不自然といえます。

それに大ピラミッドはアル=マムーンが進入するまでは手つかずの状態ですが、彼は何も手にすることなく戻っています。

以上の点から大ピラミッドには何もなかったという考えが成り立ちます。

大ピラミッドとは一体何なのか…

古代エジプト人が残した謎はあまりにも大きいですが、その謎は私たちを惹きつける大きな魅力となっていると言えるでしょう

『参考文献』

ミロスラフ ヴェルナー『ピラミッド大全』法政大学出版局 2003年

大城道則『ピラミッドへの道―古代エジプト文明の黎明―』講談社 2001年

大城道則『図説 ピラミッドの歴史』河出書房新社 2014年

吉村作治『痛快! ピラミッド学』集英社、2001年

吉成薫『ファラオのエジプト』廣済堂出版 1998年

吉村作治『四大文明―エジプト―』NHK出版 2000年

吉村作治『痛快! ピラミッド学』集英社インターナショナル、2001

古代文明大研究

歴史系ブロガーです。 小学生の頃からの古代文明が好きです。 古今東西の古代の歴史について調べています。 解き明かされていない謎について迫って行くことに面白みを感じています。(中々人に理解されないですよね~泣) 分かりやすく世界の古代史について情報発信をしていきます。 よろしくお願いします

-エジプト, 古王国時代
-, , , , , , , , , , , ,

© 2021 古代文明大研究 Powered by AFFINGER5