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自らの生きた証を、未来永劫遺したい…
そして、自分の功績を世界に広く誇りたい-一国の王たるもの、そう望まない人間の方が歴史上少ないかもしれません。
人類最古の文字、楔形文字を生み出した古代メソポタミアの王たちも例外ではありません。
彼らは発明したばかりの文字を使い、その人生を誇らしげに粘土板に刻み残しました。
そうした一群の歴史資料は「王名表」として現代に伝えられています。
メソポタミアの王たちの系譜と功績

シュメール王名表が発見されたキシュ遺跡/Wikipediaより引用
古代メソポタミア、紀元前24世紀中頃にサルゴン1世は誕生します。
尼僧の母を持ち、生まれてすぐ籠に入れられてユーフラテス河に流されたのですが、たくましくも生き残り、キシュ王に仕官します。
その後、アッカド人たちを率いてラガシュやウルクなどの諸都市を打ち破り、メソポタミアではじめての統一王国を成立させました。
このようにサルゴン1世は偉大な業績がありますが、もちろんすべてが史実かどうかは分かりません。
もちろんそこには誇張や伝説が多分に含まれているとはいえ、実際サルゴン1世が統一王朝を築いたことは明らかになっています。
このような記録は、何もサルゴン1世に限ったものではありません。
その孫ナラムシンが自らを神格化し、強大な権力を誇ったこと、
バビロニア王ハンムラビが歴史に名高い法典を作らせたこと、
アッシリア王たちが優れた軍事力によって近隣諸国に侵攻したこと。
彼らの活躍は、同時代資料によってその偉大なる業績を知ることができます。
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それは、古代メソポタミアの王たちにより遺された「王名表」と呼ばれる王の名とともにその出自や功績を刻んだ記録によるところが大きいでしょう。
紙のない時代のこと、彼らは粘土板にまだ発明されて間もない楔形文字を使い、即位の順に銘々の人生を書き記しるしました。
それは権威づけのために時に伝説的な脚色が加えられていたり、年代を遡っていたりと若干の矛盾を含みつつも、おおよそ史実に沿っていると思われます。
情勢が移ると王朝が交代してなおその伝統は廃れることがなく、王から王へ、そして王朝から王朝へとその系譜は脈々と受け継がれてきました。
ヨーロッパではようやく農耕文化が定着し始めた、日本の縄文時代にあたる頃、メソポタミアにはすでに文明が成立し、王たちの間では覇権争いが勃発していました。
そうした動乱の時代を垣間見る窓口となっているのが、この王名表なのです。
神格化されるメソポタミアの王たち。
チグリス・ユーフラテス河周辺に繁栄し、世界最古の文明のひとつに数えられるメソポタミア文明。
治水・潅職農業に成功し、麦などの栽培を行うようになったこの文明の最初の担い手となったのは、シュメール人でした。
シュメール人たちの建設したウルク、ラガシュ、キシュといった都市国家は、メソポタミア地方の統一に向けてしだいに覇椛を争うようになり、一帯に動乱の時代が訪れました。
そしてこれを収束せしめた人物こそが、サルゴン1世なのです。
その後、ナラムシンの代に最盛期を迎えたアッカド王朝が倒れると、紀元前22世紀末、後を引き継ぐ形でウル第3王朝が勢力を強めます。
その初代王ウルナンムは「ウルナンム法典」と呼ばれる世界最古の法典を発布しました。
2代王シュルギの代にはそれまでも行われていた王の神格化が徹底され、「王は地上世界の守護神であり、天上の神との架け橋である」とまで宣言します。
またこの頃、現存最古の王名表「シュメール王名表」が記されたと考えられています。
ウル第3王朝の滅亡後、再び混乱期に入ったメソポタミア地方には、イシンやラルサ、ヒッタイト、古バビロニアといった王朝が台頭。
それぞれ「イシン王名表」「ラルサ王名表」などで各王朝の正統性を主張しています。
その中から勝ち残ったのが古バビロニアで、カリスマ的な王ハンムラビによって統一国家が樹立され、政治機構の整備とともに「ハンムラビ法典」が成立しました。
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古バビロニアによる統一が崩れた後、しばらくの動乱期を経てメソポタミアを統一に導いたのがアッシリアです。
「アッシリア王名表」によれば、シャムシ・アダト1世、アッシュール・ナシルバル2世などの軍事に秀でた王たちが活躍しました。
新アッシリアの時代にはエジプトまで進撃し、ほぼ全オリエントを統一します。
しかし、そのアッシリアも新バビロニアとリディアの連合軍に侵攻され、あっけなく滅亡。
つづく新バビロニアの王朝も、アナトリアからアケメネス朝ペルシアが襲来したことで短命に終わり、ここにメソポタミア文明は幕を閉じました。
王名表を記す意味とは?
メソポタミア地方において、覇者が慌ただしく入れ替わったが、王名表を作る風習は各王朝に共通しています。
その背景にはいくつかの理由があるようです。
例えば、王朝によって多少の変遷はあるものの、楔形文字が広く普及していたこと、
さらに記録媒体である粘土板の原料となる良質の粘土に事欠かず、ペン代わりだった葦も多く自生していたことなどです。
また一定の識字率を保てたのには、各王朝でおなじような教育制度と官僚制度を取り入れていたことも影響していたと考えられます。
どの王朝でも書記と呼ばれる人々がエリート国家公務員として育成され、文字もまた幼い頃から教え込まれていたのです。
メソポタミア人は国内の状況や、他国との外交や戦況、あるいは命令文などを書き記すことができました。
そして王名表もまた、この書記によって書き継がれていきます。
歴史というと、現代の感覚であれば起きた出来事をメインに記すものと考えがちですが、
古代においては王家の歴史そのものが国家の歴史であるに等しかったのです。
王名表を作ることは王の権威となるのはもとより、国家の正統性を国内外に知らしめることにもつながる重要な国家事業でもあったでしょう。
その最初期のものと目されるのはウル第3王朝期に作られた「シュメール王名表」だが、前半の部分についてはむしろ“王朝史”といった趣で、伝説色が強いものです。
これによれば、まず最初に5つの都市の8人の支配者に24万1200年分の王権が天より与えられたとされ、やがて大洪水に見舞われました
水が引いた後、王権はキシュの王に与えられます。
その後王権は、グティ、アガデ、イシンなどに転々とし、アッカド王朝を経てウル第3王朝へと至ります。
概して王個人の名がほとんどあらわれず、在位期間も数百年単位で記されているアッカド王朝までを境に、徐々に史実性を帯びるようになっていったのではないかとみられます。
しかし、ウル第3王朝が滅びます。
都市国家アッシュールを支配した王たちに連なる第39代王として登場するシャムシ・アダト1世は、自身の王位墓奪を正当化する目的で「アッシリア王名表」を作らせたと考えられています。
というのも、もともとシャムシ・アダト1世はアッシリア人とは異なるアムル系の民族でした。
自らの父や兄の名を、自分よりはるかに以前の王として王名表に書き込み、王位を得るまでの経緯を“捏造”したのではないかと考えれています。
両バビロニア王朝の「バビロニア王名表」は、ほとんどが失われ、ごく一部が現存するのみです。
しかし「ウルク王名表」や「イシン王名表」との共通点も少なくないと言われます。
古代メソポタミアに乱立した王朝の王名表をつき合わせてみることで、その信懸性を確かめられます。
これはメソポタミア史の全容を明らかにする大きな手がかりにもなっています。
メソポタミアだけでない、権力者にとっての王名表
王名表というのは、いわば一種の歴史書であり、古代世界において多くの文明でこれに類するものが作られています。
おそらくその目的はメソポタミアの王たちとそう変わりませんでした。
例えば、古代エジプトではメソポタミアと同じく王の神格化が行われます。
ヒエログリフなどの文字によって王の名や事績が建築の壁やパピルスに記された「アビドス王名表」とよばれるセティ1世の神殿に残された王名表があります。
ここにはメネス王からセティ1世に至る76人のファラオの名が記されています。
しかし、この中には本来いるはずの幾人かの王の名が抜けており、意図的に改ざんされたとも考えられます。
またトトメス3世葬祭殿の「カルナック王名表」には62人の王名が見られるが、王朝も即位年も順不同なものあります。
こうした継ぎはぎだらけの歴史を整理したのが、プトレマイオス朝時代のマネトーという人物です。
紀元前3世紀頃、マネトーによって王の名前とそれぞれの業績を対応させた『エジプト史』がまとめられました。
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一方はやくから紙の製法を確立した中国では、王朝が交替した際に前の王朝の歴史を史書として編纂していました。
その代表格が司馬遷の『史記』で、司馬遷は伝説の夏王朝から前漢代までの王や英雄の功績を全130巻に著し、その後の史書編纂の礎を築きます。
また大陸文化を取り入れた日本でも、歴史書の編纂が国家事業として行われるようになり、『古事記』『日本書紀』が現存最古の例として知られています。
粘土板などに比べ、記録可能な情報量が非常に多い紙を媒体とした中国や日本では、王名を記した“表”というよりは“文献”といった方が正しいが、性質としては同様なものと言えるでしょう。
さらに中央アメリカのマヤ文明でも、複数の王の名が神殿などの石の壁面に数多く刻まれています。
マヤ文字と呼ばれる図案化された文字により、王たちは崇拝されたジャガーや、神々たちと習合した姿で表現されています。
その地域ごとに形態は異なるが、王たちは自分たちの生き様を形にし、現代へとその栄光を伝え残しました。
それらは、もはや彼ら自身の思惑すらも超える歴史的な価値を有しているといえるのかもしれません。