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メディア王国の歴史―古代ペルシャより先に存在した古代イランの大国―

多くの民族が交錯したオリエントの古代王国は、大帝国を築いたペルシア人の征服活動によって、次々と飲み込まれていきました。

イラン高原にあったメディア王国もそのひとつです。

しかし、紀元前6世紀にペルシア帝国に敗れる前のメディアは、軍事大国アッシリアを滅ぼし、西アジアを一帯を支配した強国でした。

そんなメディア王国についての情報は、あまりにも乏しいものです。

メディア人とは何者なのか

ポリスの浮彫に描かれたペルシア人兵士(右)とメディア人兵士(左)。

ユーラシア大陸南部にあるイラン高原の西には、メソポタミアの平原が広がっています。

そして東にはインダス川の峡谷があり、南のぺルシア湾はインド洋への玄関口でもあります。

こうした環境に位置するイラン高原は、東西世界の文化が交錯した地としてのイメージの強いがもともとはアーリア人と呼ばれます。

同一の文化や言語を持つ集団が暮らす地でした。

しかし、紀元前2000年代、そのアーリア人たちは東西に分かれて移動を始め、東方すなわちインドに向かった一派は、インド・アーリア人と呼ばれるようになります。

一方、西方は移動した一派はイラン・アーリア人と呼ばれ、古代オリエント史の表舞台にしばしば登場するようになります。

例えば紀元前17世紀頃にアナトリア半島に登場したヒッタイト王国の支配階級は、彼らの流れをくんでいたと言われます。

またイラン・アーリア人は、紀元前2千年紀中頃のメソポタミアで一大勢力を誇ったミタンニ王国を構成する人種のひとつとしても登場します。

その後イラン高原の北西部に登場するメディア人も、イラン・アーリア人系の民族です。

草原で遊牧生活を送っていた彼らは、紀元前8世紀末に王国を建て、最大でイラン高原からアナトリア東部までを支配するほどに繁栄を極めました。

しかし本来遊牧民族であったメディア人は文字を使わなかったこともあって、王国の歴史についてのくわしい記録は残っておらず、その実態はよくわかっていません。

そのため、周囲の民族によるわずかな記録に頼らざるを得ないものですが、これらの資料によれば、メディア人は紀元前1000年頃までにはすでに存在していたようです。

また、王国を築く以前のメディア人たちに目立ったものはなく、むしろ近隣の民族に半ば従属するような人々であったと言われます。

限られた情報から、メディア人が如何にしてオリエントの代表する大国を築くに至ったのか、その経緯を追ってみましょう。

ヘロドトスが語るメディア人の姿

紀元前600年ごろのメディア王国(黄色)の範囲

メディア人について、ヘロドトスは詳細な記録を残しています。

『歴史』によれば、メデイア人はブサイ、パルタケノイ、ストルカテス、アリザントイ、ブデイオイ、マゴイなどの部族に分かれていたと言われます。

デイオケスという優れた男が人望を集、推挙される形で諸部族の王になったとされます。

“作り話,'が多いことで知られるヘロドトスだが、メディアについての記録に関していえば、ある程度信頼に足るもの古あることがわかっています。

いうのもシリアの遠征記録にメデイアの名がしばしば登場しているようです。

アッシリアがイラン高原で勢力を拡大しつつあったメディア人に危険感を強めたのは、紀元前9世紀半ば頃のことだったようです。

アッシリア人は精力的にメディアに遠征軍を送りこんでいます。

これに対して、メディアは紀元前8世紀頃、ダーイウックというリーダーのもとに団結し、近隣国と同盟を結ぶことでアッシリアに対抗しようとしたと言われます。

このターイウックはヘロドトスのいう初代国王デイオケスと同一人物ではないかとされていますが、

ヘロドトスは結局、時のアッシリア王サルゴン2世との戦いに敗れて捕えられてしまいます。

それでもメディア人は、紀元前673年頃、新たにカシュタリティという王のもとで団結し、近隣諸国と同盟を結ぶことで王国の基盤を強めようとしました。

だがメディア王国は、今度は南ロシアから襲来してきた騎馬民族スキタイの脅威にさらされることとなります。

この窮地を救い、王国の勢力を大きく拡大させた英雄を、ヘロドトスはキュアクサレスという名で伝えています。

キュアクサレスはデイオケスの孫にあたる人物です。

キュアクサレスはまずスキタイ人を計略にはめて主権を取り戻します。

旧領を回復すると、次に強力な騎馬部隊を中心に軍備を拡大し、新バビロニア王国のナボポラッサル王と同盟を結びました。

こうして態勢を整えた彼は、満を持してアッシリアに攻撃を仕掛けます。

そして紀元前612年、メディア・バビロニア連合軍によって、首都ニネヴェは陥落、アッシリアは滅亡させました。

遺跡からみるメディア王国の痕跡

メディア王国の首都だったエバタナ遺跡/Wikipediaより引用

これもヘロドトスによるところだが、初代国王デイオケスが即位後都を置いたエクバタナという都市があったといわれます。

そこには7重もの城壁を巡らせた城が築かれていたというが、エクバタナの故地は現在のイラン北西部の都市ハマダーンの市街とほぼ重なっており、遺跡は埋もれたままになっています。

これもメディア王国史の解明を困難にする大きな要因です。

それでもハマダーン周辺からは、メディア王国時代のものと思われる遺跡がいくつか発見されています。

この うち、ゴデイン・テペとテペ・ヌシ・ジャンと呼ばれる遺跡の発掘調査が行われたのは、1960年代から1970年代にかけてのことです。

これらの遺跡からは城壁や防御性に優れた大規模な住居や倉庫が発見されております。

おそらくエクバタナにもおなじような建物が立ち並んでいたものと考えられています。

テペ・ヌシ・ジャンからは、都市の中心的な建造物として中央神殿と西神殿と呼ばれる施設が発見されているが、これらは紀元前8世紀に建造されたと推定されています。

その内部には火を焚く祭壇が設置されており、メディア人が崇拝していた火をつかさどる神に対する信仰形態をうかがわせます。

メディア王国に関係する考古学的遺跡の地図/Wikipediaより引用

このゴディン・テぺはメソポタミア平原からイラン高原を経てインドへと抜ける東西世界の重要な中継地点を位置しています。

このことから、メディア王国は当時の東西交易ルートを独占して大きな利益を得ていたと考えられています。

こうした考古学的なアプローチによって、長らく謎に包まれていたメディア人の文化は、少しずつ解明が進められていきます。

さて、古代オリエント随一の大国にまで成長したメディアでしたが、その繁栄はおなじイラン・アーリア人の一派であるペルシア人によって打ち破られることになります。

メディア王国の滅亡と不吉な夢

メディア王国最後の王であるアステュアゲス王(左)の敗北図/Wikipediaより引用

アッシリアを打倒したキュアクサレスの子アステュアゲス王は、ある日謎めいた夢を見ます。

娘のマンダネが放尿して街中を浸し、遂にはアジア全土に氾濫する、という内容

その内容が“不吉だ”と占い師に診断されたアステュアゲス王は、マンダネをメディア人ではなく、彼らが低い身分とみなしていたペルシア人と結婚させること決めています。

しかしマンダネが稼いだ最初の都市に、またもアステュアゲス王は夢を見ます。

娘の陰部から生えたブドウの樹が、どんどん茂り、アジア全土を覆いつくしました。

アステュアゲス王は自らの孫を殺すために、妊娠中の娘を呼び戻しました。

なぜなら、生まれてくるその子が自分に代わって王になると予言されたためです。

アステュアゲス王の夢(フランス、15世紀):娘の陰部からブドウの樹が生えている/Wikipediaより引用

しかし、結局その子は無事に生まれ、成長して予言通りアステュアゲスの国メディアを滅ぼしたとヘロドトスは語ります。

このアステュゲスの孫こそがペルシアのキュロス2世になります。

もちろんこれは隠喩的な話ですが、メディアがペルシアに滅ぼされたのは史実としててはっきりしています。

当初メディアに対し従属的な地位にあったぺルシアだったが、キュロス王のときに反メディアに転じ、紀元前550年、遂に首都エクバタナを陥落させ、 王国を滅ぼします。

ペルシア帝国はメディアの領土やその文化も同時に継承します。

そのため、ぺルシア帝国を支えた地方支配システムであるサトラップ制度も、メディア王国の度にルーツを求めることができると言われています。

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