エジプト 古王国時代

メンフィスー古代エジプトの真の首都とファラオたちの歴史ー

メンフィスは上下エジプトの境界線に建設された古代エジプト王朝の首都です。

ここからファラオによる歴史が幕開けし、巨大ピラミッド建設の構想もここで絵が描かれ、3000年の聖都として古代エジプトの歴史に欠かせない場所です。

メンフィスでは華やかしい文化がここで花開き、偉大なエジプト文化の礎が築かれることになります。

王都メンフィスでは人々はいったい何を考え、どのような日常を送っていたのでしょうか?

今では荒れ果てた姿のメンフィス遺跡から、古代エジプトの栄華に迫りたいと思います

メンフィスこそ古代エジプトの真の首都

メンフィス遺跡の象徴でもあるラムセス2世の石像:全長15mにも及ぶもので、プタハ神殿の門に2体1組で建てられていた/筆者撮影

古代エジプト王朝の歴史は下エジプトにあるメンフィスから始まります。

約3000年もの長きに渡たる古代エジプトの歴史ではメンフィスはもっとも長く首都として栄えました。

その首都がほかの地に移ってもその影響力は変わることなくエジプト文明の要衝の地であることは確かでしょう。

以上のことから多くの研究者たちはメンフィスこそエジプト文明全時代を通じての本当の首都であったと考えられています。

下エジプトの地図:ギザやサッカラといったピラミッド群の近辺にメンフィスが所在する/Wikipediaより引用

「エジプトはナイルの賜物」という有名な言葉を挙げるまでもなく、古代エジプトはナイル川と共に歴史を歩んできました。

ナイル川はエジプトの南北をまたぎ、北部デルタ地帯を経て地中海へと流れ、その上流のアスワンから南は黒人の国であるヌビア人が居住します。

古代エジプト文明史の舞台となったナイルの上流は急峻な山が河に迫る河谷地帯で、ここをエジプト人は上エジプトと呼びました。

これに対して下流域ではナイルは5つの支流に分かれて広大なデルタ地帯を作っています。

これが下エジプトになります。

川沿いには、先史時代から住み着いた人々がおよそ2000年もの間に農耕型の村落を作り、上下エジプトそれぞれに小規模な都市国家を作っていました。

紀元前3000年頃になると、エジプト国土を統一する王が出現します。

文化的な要素が全く異なる上下エジプトの情勢を把握し、統率するためには、上下エジプトという2勢力の境界線に拠点を置くのが好都合と言えるものでした。

その地として選ばれたのが「メンフィス」になります。

メンフィスは、エジプト古王国時代の政治的な中心として、上エジプトのテーベに首都が移されるまで、およそ800年間に渡り繁栄を極めることになります。

実はメンフィスに興った最初のエジプト王は誰だったかについては、世界の考古学者が今なお議論しているところです。

時代があまりにも古く史料も不十分ですが、第1王朝の王は上エジプトの王であったナルメル王であったと考えられています。

メンフィスがファラオの都になった理由

プタハ神:メンフィスで信仰されていた創造神で、職人の神としても崇拝されていた/筆者撮影

古代エジプトは太陽や月、鳥や牛などあらゆるものが神として信仰されていました。

また、都市にはそれぞれの守護神が祀られ、メンフィスの場合はプタハという神が守護神として信仰されていました。

上下エジプトが統一されて王朝が興り、メンフィスが王都としてその重要度を増していき、プタハ神もエジプトの国家神へと成長することになります。

プタハ神は王都の神として、後代のファラオの即位の儀式を司る神となり、工芸の神として職人からも崇拝され、王家だけでなく民衆にも絶大な影響力を持つ神となっていきます。

王朝初期のメンフィスは「白い壁」(イネブ・ヘジュ)と呼ばれ、ナルメル王が建設したという白い城壁を巡らせた平和な街であったようです。

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エジプトに数ある古代都市遺跡の中でも城壁を巡らせた街は珍しく城南の南には守護神プタハ神の神殿が建てられ、初期から特別な都市でした。

現在は寒村にすぎないメンフィスの故地には、このプタハ神殿の遺構が野外博物館として保存されています。

ラムセス2世によって増築されたメンフィスのプタハ大神殿の復元図/Wikipediaより引用

現存するプタハ神殿の遺構は、その大部分がナルメル王の時代からおよそ1800年後のファラオ、第19王朝のラムセス2世によって建造されたものになります。

当時の規模はエジプトでも最大の神殿であるカルナック神殿にも匹敵するほどの規模でした。

神殿の周囲は石像が並び、正面の門前の高さは15mに及ぶラムセス2世の巨象が建てられ、現在この像のひとつが神殿跡地のラムセス2世博物館に保存公開されています。

足の一部が破損していますが、かなり巨大な彫像で神殿の北と南側には、スフィンクスの像とその参道があったと言われます。

神殿跡地の野外博物館にそのひとつが展示されいます。

大きさは全長約8m、高さ約3m、アラバスターという貴重な石材で穏やかな表情が非常に印象的です。

新王国時代の第18王朝のファラオであるアメンホテプ3世の時代の特徴を備えていることから、新王国時代に造られたものと考えられます。

セラペウムで発見された聖牛アピスの像/Wikipediaより引用

また、末期王国時代の第22王朝のシェションク王によって築造された聖牛アピスのミイラ処理施設があります。

聖なる雄牛アピス神の信仰はメンフィスが起源とされており、プタハ神の再生の前触れを暗示する副神でもありました。

雄牛アピスは農耕の神であり、人々の食卓を豊かにする神として祀られていました。

アピス神の化身としてミイラ処理された聖牛がサッカラのアピスの墓地に埋葬され信仰されることになります。

メンフィスの繁栄と凋落

ジェセル王の階段ピラミッド:ピラミッド建設の計画や構想はメンフィスで行われた/Wikipediaより引用

ナルメル王に始まって第3王朝のジェセル王の時代に入ると、エジプトは王の支配を基盤とした中央集権的な国家としての体制がひとつの完成と捉えられています。

この第3王朝から第6王朝までのおよそ500年間、古代エジプト文明の到達点を迎えることにななりました。

神である王を頂点とした宰相や官僚による社会システムが作られます。

こうした背景から政治的な安定が得ることが可能になり、科学と文化お大発展期を迎えることになります。

書記という職業が生まれヒエログリフが普及し、人口調査やナイルの水位の計測が始まり十進法が確立したとされます。

また、職人や技術者たちによって灌漑技術や土木、建築技術が発展し、さらには工芸や美術、医術や薬学もこの時代に目を見張るような進歩を遂げました。

こうした文化が集まった要因が、メンフィスの西側に造られた数多のピラミッドです。

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メンフィスのファラオや王族たちは、ファラオの強大な経済力と国家の組織力

そして当時最高の科学技術の成果を世の中に知らしめるためにピラミッドを建設したとも言えます。

第3王朝のジェセル王以降、メンフィスの王たちは競うように独自のピラミッドを建設し始めます。

古王国時代にメンフィスの西側の砂漠地帯には、こうした無数の王墓や葬祭施設、そして大きさも形も様々なピラミッド群が建設されました。

メンフィスの地図/Wikipediaより引用

メンフィスのネクロポリスのと言われるこの王墓群の地域は、南北約100㎞にも及ぶ広さを有します。

第4王朝のピラミッド群は壮観で、ダハシュールにはスネフェル王の屈折ピラミッド、ギザにはクフ王・カフラー王・メンカウラー王の3大ピラミッドが存在しています。

第5王朝時代になると、神殿や居住区が複合的な葬祭施設が築かれ、ピラミッドテキストが刻まれるようになります。

また、後のエジプトの主神となる太陽神崇拝が始まったのもこの時代からです。

太陽神ラーの息子を名乗る王が築いた太陽神殿の正面には、角柱形のオベリスクが建立されました。

第6王朝になるころには、国庫は疲弊し、王墓の装飾も質素なものになり、墓全体が地下に造られるものも出現します。

古王国時代は第6王朝から急速に衰退しました。

大事業を推進する莫大な経費は経済的打撃を受け、さらにファラオは権力を独占して怠慢になり、側近たちには政治腐敗がはびこるようになっていきます。

第6王朝は崩壊し、古代エジプトは混沌の時代を迎えることになります。

王都メンフィスの破壊と意義

ラムセス2世が建設した神殿跡:イスラム時代に多くを破壊され、現在の首都カイロの建築資材となった/Wikipediaより引用

しかしその後もメンフィスは、北からの新入者の脅威と戦うための要衝となります。

地中海側から上がってくる交易船や西の砂漠を超えてくる商人たちの中継地として下エジプト最大の都市でありつづけます。

また王家の都としての宗教的な重要性は後世に受け継がれることになります。

「正当なエジプトの支配者はメンフィスを制する者である」という考えは近隣諸国でも知られていました。

紀元前525年、混乱する王朝末期のエジプトを征服したペルシア王カンビュセスは、メンフィスで第27王朝を興しファラオに即位しています。

首都を地中海にほど近いアレキサンドリアに置いたプトレマイオス朝時代には、ファラオの戴冠式の式典はメンフィスのプタハ神殿で行われました。

都市メンフィスが本当にその命脈を絶たれたのは、4世紀、ローマ皇帝テオドシウスがエジプトの神殿を閉鎖させた瞬間でしょう。

エジプトがイスラム教徒の時代になるとカイロを建設します。

カイロ建設の時に、メンフィスの城壁は跡形もなく灰燼に帰し、神殿の石材は要塞建設のために持ち出されることになります。

メンフィスという都市の名は「メン=フェル」(確固とした美しいものの意味)に由来します。

しかし、現在はかつての栄華をしのばせる物はかなり少ないが、まだまだ発掘されていない遺構は多いと言われています。

今後、発掘作業が進展すれば、更なる王都の全貌が見えてくることでしょう。

『参考文献』
エイダン ドドソン, ディアン ヒルトン他『全系図付 エジプト歴代王朝史』東洋書林 2012
吉成薫『ファラオのエジプト』廣済堂出版 1998年
吉村作治『四大文明―エジプト―』NHK出版 2000年
吉村作治『古代エジプトの埋もれた記憶』青春出版社 2003年

 

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