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「エジプトはナイルの賜物」、この名言を述べたのはギリシャの歴史家ヘロドトスです。
この言葉の通り、エジプトはナイル川無くして発展することはなかったでしょう。
よって農耕がナイル川の恩恵そのものと評価しても過言ではありません。
大地の多くを砂漠はほとんどであるアフリカですが、
ナイル川は豊かな水量を有し、その肥沃な土をエジプトへと運んできました。
エジプトを支えたオアシス…そこで意図なわれた農耕や生活とはどのようなものだったのでしょうか?
オアシスが砂漠の農耕を助けた
農耕の発明は、人類の中でもっとも重要な事柄のとされています・
野生の植物や動物を糧とする原始的な狩猟・採集生活から、自らのタネをまき作物を自給する定住農耕生活へシフトします。
人は安定した食料供給原を獲得し、より多くの人口を養うことができました。
人々はやがて集落の規模を拡大させ、文明が誕生します。
人類の発展のきっかけともなった農耕は地域によって大きく2つに分けられます。
ひとつは年間を通して雨の多く降る地域で行われた農耕、
もう一つは雨のほとんど降らない砂漠のような乾燥地帯で行われた農耕です。
雨の多く降る地域では、適当な地にタネをまき、手入れをすることによって、それほど苦労せず作物を収穫できます。
しかし、乾燥地帯では、作物を育てるために必要な水が圧倒的に不足しております。
如何にして大量の水を獲得するかが重要になってきます。
この問題を解決するために、乾燥地帯に住まう人々は水源のあるオアシスに目をつけます。
オアシスとは、本来は乾燥地帯にあり、局所的に淡水が供給さえる土地のことを包括的に「オアシス」を呼びます。
オアシスの水の供給源は地域によって異なり、大きく分けて3種類に分類されます。
地下水から由来するもの、乾燥地帯で局所的に降る雨。そして、最後が常に流れる川になります。
これらの供給源により成立するオアシスの中で、古代からもっとも盛んに利用されたのが、河川の近くのオアシスです。
このオアシスを利用し、古代世界において繁栄した代表例ともいえる存在が、ナイル川で誕生することになります。
ナイル川の恵みを受けたオアシス農耕によって獲得した豊かな収穫こそ、3000年以上にわたって存続したエジプト王朝の支えることになります。
オアシス農耕はナイルの賜物?
エジプト文明はナイル川の恩恵によって誕生し、発展した文明といえるでしょう。
エジプト文明の基盤ともなったナイル川は世界的に見ても非常に特別な川になります。
普段はナイル川の水位は低く、ほとんど水が流れていません。
しかし、7月から9月にかけての数ヵ月間に大洪水が起こり、古代において、乾期と比べて水位が7メートル以上も上昇したと言われます。
年に1度のナイル川の氾濫は、上流のエチオピア高原で降る雨がその所以です。
11月頃には氾濫は収まり、川から水が引いていき養分を含んだ蓄えた土地になります。
植物を育てるには格好の条件が自然に整います。
このサイクルによって、紀元前5000年頃にはすでに農耕が始まったと考えられています。
このように、ナイル川の氾濫は大量の水をエジプトへとたらしたが、地域によっては十分に水がいきわたらなかったようです。
小規模なコミュニティであればそこまで問題ではなかったようですが、富み栄えたエジプトの人口は増加していた状況です。
そのため、水不足は深刻な問題となっていたことでしょう。
そこで、エジプト人はナイル川のほとりで灌漑し始めます。
彼らは川の湾になっている地域から水路を掘りため池を作ります。
ため池の底には水分が失われないようにするため粘土を敷き詰め、農耕に必要な水を確保しました。
後はため池から農地へと水路を引くことで、安定的に水を供給することが果たせたのです。
この灌漑方法の発明はエジプトの各地へ伝播し、取り入れられたと考えられます。
こうしたオアシス農耕は、単に農作物の収穫量を安定させただけでなく、文明の発展するきっかけにもなりました。
農業用のため池や水路は常にメンテナンスが必要です。
さらに、水を利用するには公平な管理を取り仕切る指導者が不可欠となりました。
そこで、必然的に人々を統治する人間があらわれ、やがて強大な王権を作り出す要因になります。
こうした指導者のもとで生産力が向上したことで、農耕に従事しない神官や廷臣、職人といった職業を生業とするいわば余剰人員を養うことができます。
実際、エジプト王朝ではオアシス農耕はより組織化され、ナイル川沿岸には碁盤の目のようなため池が造られました。
ため池の水は水路を通って農地の隅々まで行き届き、毎年潤沢な穀物が収穫されました
エジプトの農地で作られた主要な作物は、ナツメヤシと麦であったようです。
麦はパンとなって人々の主食となり、あるいは人々の喉を潤すビールの原料となっていました。
ナツメヤシは甘く栄養価の高い果肉が食され、果汁は甘味料として使われました。
また、乾燥させ保存食としても利用されていたようです。
ほかにも材木として用いるなど、ナツメヤシはすべてを余すことなく活用されました。
これらの作物が栽培された理由はほかにもあり、それは麦やナツメヤシは暑さや乾燥、塩害に強い植物であるということです。
ナイル川の恵みと灌漑によって、農耕に必要な水を得ることができましたが、水は有限でした。
そのため、効率的に利用しなければなりませんでした。
その点は麦やナツメヤシは、一度土地に十分に水をやり適度に潤っていれば、大した手入れをしなくても後は自然に成長します。
たとえ乾燥によって多少は土の中の塩分濃度が高くなったとしても、ほとんど枯れることはありませんでした。
また、土地あたりの収穫量が高いことも重要なポイントと考えられます
初期のエジプトではさほど生産性の高くない大麦が栽培されていたようですが、紀元前4000年頃には小麦が伝播し、生産性が格段に向上しました。
ナツメヤシは1本の木に100を超える実がなります。
エジプト以外にメソポタミアなどでも古くから栽培されていたのも理解できる話です。
このように農耕が大規模に発展するにつれて、エジプトでは家畜の利用も盛んになってきます。
紀元前3400年頃の壁画には犂を引く牛や何頭ものロバの背に穀物を担わせて運搬させる様子が描かれています。
家畜が必要不可欠な労働力として使役させていたことが分かります。
世界のオアシス農耕
オアシス農耕は、エジプト文明の繁栄の中でなくてはならない農法でした。
しかし、これはエジプトだけでなく、世界各地の乾燥地帯に該当することです。
エジプトに並んではやくに文明のさかえたメソポタミアでもオアシス農耕が盛んでした。
メソポタミアもエジプトとおなじ乾燥地帯に誕生した文明ですが…
チグリス・ユーフラテス川の豊かな水が食糧の供給を賄っていたと言えます。
またエジプト以外の北アフリカや内陸アジアでは河川ではなく、高地の水源を利用したオアシス農耕が広く行われました。
乾燥地帯であっても一定以上の高度に位置する高地では、わずかですがあるが雨が降り、地下に水が溜まります。
この地下水を利用して高地から地下水を麓へと引き入れ、農耕に利用しました。
しかし、この方法は河川の利用に比べ得られる水量は少なく、地表に水路を造っても農地に辿りつく前にほとんど水が蒸発して失ってしまいます。
そこで地下水道を造ることで水分の蒸発を防ぎました。
この地下水道はアフリカではファガラ、中東ではガナートと呼ばれるものが各地で設置されました。
このほかにも、西アジアなどでは湧き水を利用したオアシス農耕が行われます。
やがてオアシス都市国家へと発展し、東西交易の中継地点として重要な役割を担いました。
オアシス農耕は、人が乾燥地帯で生き抜く上で絶対的に必要であり、文明の誕生に密接に関係した農耕でした。
現在でも、オアシス農耕はアフリカや内陸アジアの一部でつづけられており、人々はオアシスの水の恵みを享受しています。
『参考文献』
エヴジェン・ストロウハル『図説古代エジプト生活誌』原書房 1996年
ジョナサン・ノートン・レオナード『農耕の起源』タイムライフブックス 1977年
『世界の灌漑と排水』家の光協会 1995