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イラクの首都、バグダッドから北へ300キロメートルほどのところに、ひとつの都市遺跡が遺されています。
今から3000年以上前、かつてアッシュールと呼ばれたこの都市は、メソポタミアに覇を唱えたアッシリアの最初の主都として繁栄を極めました。
にもかかわらず、この遺跡の埋蔵品の多くが士に埋もれたまま放置されてる状態です。
治安の問題から観光客はおろか研究者でさえ、そこに足を踏み入れることはない状況になっています。
そのため、謎が多い遺跡でもあります。
今回は、「世界帝国」とまで評されたアッシリアの都「アッシュール」の全貌について語っていきます。
世界帝国アッシリアの王都「アッシュール」

アシュールの遺跡で警戒中の米兵/Wikipediaより引用
アッシリアーかつて強大な軍事力によってオリエント世界を支配します。
「世界帝国」とさえ呼ばれたこの国は、その長い歴史の中で幾度かの遷都を行い、複数の王都が遺跡として残っています。
例えばチグリス河上流の都市遺跡カルフは、紀元前879年、アッシリア王アッシュール・ナシルバル2世が新都として建設したもの
さらにその上流に遣るニネヴェ遺跡にも、紀元前705年以降に王都となります。
しかしこれらの都市が王都とされたのは、いずれもアッシリアが帝国として興隆を始めた新アッシリアと呼ばれる時代になってからのことです。
そのため、王都であった期間も200年を超えない短い期間の都になります。
これらの都市が王都とされる以前、アッシリアでは長きにわたって、ひとつの都市がその政治的・宗教的な中心どなっていました。
その都市こそアッシリア最古の王都アッシュールになります。
アッシュールは、アッシリアが都市国家として勃興した当初から、中心的な都市でした。
王都としての歴史は、一時的に断絶しながら500年以上にも及び、まさにオリエント世界に覇を唱えたアッシリアの源流となった都市と言えます。
その遺跡は、現在のイラク北部、バグダッドの北約300キロメートルのチグリス河西岸に所在します。
1847年、この遺跡をはじめて発掘したのは、A・H・レヤードをはじめとするイギリスの考古学者たちです。
当時この遺跡は近隣の村の名をとって「カラット・シャルカート」と呼ばれていました。
しかし、この発掘では大した成果は上がらず、結局その出自もわからずじまいでした。
そんな謎の遺跡の正体を解き明かしたのが、考古学者W・アンドレ―率いるドイツ・オリエント学会のチームです。
アンドレ―らは1903年以降、10年以上にわたってこの遺跡を大規模に発掘。
これによって謎の都「アッシュール」の全貌がおぼろげながら明らかになっていきます。
アッシュールの興亡の歴史
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アッシュールの復元図/Instagramから引用
アッシュールが都市として発展を始めたのは、紀元前2500年頃になります。
当時文明の中心はメソポタミア南部のシュメール地域でした。
そして、メソポタミア北部のアッシュールも徐々に都市としての機能を備えつつ発展していったようです。
アンドレーの発掘調査によれば、都市西部のイシュタル神殿は6回以上改築を繰り返してはいるが、神殿そのものはこの頃からすでに存在していたと主張しています。
その後、「古アッシリア時代」と呼ばれる時期において、アッシュールは、サルゴン王によって興隆したアッカド
そして、ウル第3王朝の支配を受けながらも、紀元前19世紀頃になると独立を果たし、その後交易都市として発展します。
メソポタミアからエジプトへと及ぶ地域のちょうど中間に位置していたアッシュールは、オリエント世界における交通の要衝でした。
アッシュールの商人たちは青銅の材料となる銅と錫の交易を独占。
さらにオリエント各地の都市に「カールム」と呼ばれる居留地を建設しました。
その交易網は遠く小アジアへも達していたようで、アナトリア高原中央部のカニシュやハットゥシャなどの遺跡には当時のカールムの痕跡が残されています。
紀元前1813年頃になると、アッシュールはアムル人の王シャムシ・アダト1世によって征服されます。
シャムシ・アダト1世はアッシリア王を名乗って各地に遠征を行います。

アッシリア王シャムシ・アダド1世時代のメソポタミア勢力図/Wikipediaから引用
この時に北メソポタミアの統一に成功しますが、その死後王国は衰え、北西の大国ミタンニの支配を受けることになります。
しかし紀元前14世紀、ヒッタイトの王シュピルリウマ1世によって、大国ミタンニが征服されます。
これに乗じてアッシリアは勢力を取り戻し、王国は「中アッシリア時代」へと突入します。
しかしその勢いも紀元前13世紀をピークに再び衰え、その後しばらく、アッシリアは雌伏を強いられる事態に
紀元前10世紀、「新アッシリア時代」に入ると、アッシリアは破竹の勢いで版図を拡大。
紀元前8世紀にはメソポタミア全域を手中に収めることになります。
しかし、このアッシリアがもっとも興隆した時期、王都はアッシュールから移されることになります。
紀元前879年、アッシュール・ナシルバル2世によって、アッシュールの北方に新たな王都カルフが建設されたのである。
この遷都の理由については、カルフの置かれた地域の方がより農業生産力が高こと
また、拡大する王都の人口を賄うのに適していたからだとみられています。
しかし遷都が行われてからも、アッシュールが見捨てられたわけではありません。
王国の父祖の地として、依然アッシリアの宗教的な主要都市に位置づけられます。
紀元前612年、メディアと新バビロニアの連合軍の攻繋によってアッシリア自体が滅亡するまで、繁栄しつづけたのです。
アッシュールの都市構造

アシュールの遺跡の都市内部図/Wikipediaより引
アッシュールは街の東側をチグリス河に接し、イチョウの葉のような形に広がる都市です。
また、現在では洞れてしまっているが、当時は都市の北方もチグリス河の支流に接していました。
これは貿易船のための運河として、また天然の堀としても機能していました。
さらに、南西方向にも約4キロメートルに及ぶ2重の城壁と人工の堀が築かれ、防護に優れた都市構造をを持っています。
市街は東西約800メートル、南北約1400メートルにわたって広がっており、もともとの市街である旧市と、中アッシリア時代、南方に新たに拡張された新市とに分かれています。
しかし、このうち新市は主に住宅地で、王宮や神殿などの重要な建物は旧市の北側に集中しています。
アッシュールのもっとも北東、ちょうどチグリス河の本流と支流が交わる地点には、都市とおなじ名を持つ守護神アッシュールを祀ったアッシュール神殿が建っています。
これはもともと北メソポタミアを統一したシャムシ・アサド1世によって築かれたものとされていますが
当初はシュメール神話における風と嵐の神エンリルが祀られいました。
またこの神殿のすぐ隣には、一辺が60mほどのピラミッド形建造物、いわゆるジグラッドが建っていたようです。
そこには神殿とおなじく当初はエンリル神、そして後にはアッシュール新を祀っていたとされます。
このジグラッドの南西にが、古アッシリア時代からつづく王の居城、古宮殿が置かれています。
この宮殿の南側からは王墓が発見されてており、アッシュール・ナシルバル2世ら新アッシリア時代の王のものも含まれていました。
つまり、アッシリアの王都がカルフヘ移された後も、歴代の王は父祖の眠るアッシュールを自らの埋葬場所に選んでいたことが分かります。
宮殿の西方には、アッシュール最古の神殿一であるイシュタル神殿をはじめ、ナブー神殿、シンとシャマシュの神殿、アヌとアダトの神殿などが立ち並びます。
その西方には、中アッシリア時代の王トゥクルテイ・ニヌルタ1世によって建てられた新宮殿があり、
さらにその北西、城壁の外側には新年祭を行うための祭殿が置かれています。
危機に立つ世界遺産アッシュール

アッシュール(カル・アット・シャルカト)遺跡の発掘エリア/Wikipediaより引用
かつてアッシリアの王都として繁栄をきわめた都、アッシュール。
出土した文献によれば、アッシュールには38もの神殿が建っていた言われます。
しかし、現在この地は、発掘どころか立ち入ることすら難しく、遺跡もその存亡さえ危うい状況に置かれています。
2003年、ユネスコはアッシュール遺跡を世界文化遺産に登録し、さらに存続が危ぶまれる遺跡として、「危機遺産」のリストにも入っている状況です。
これは当時のフセイン政権が干ばつ対策として、この遺跡の下流に大規模なダムの建設を予定しており、そのままダムが完成すれば遺跡の一部が水没する危険性がありました。
その後、イラク戦争によってフセイン政権が崩壊するとダムの建設計画も頓挫します。
イラク戦争やISILの台頭により、イラクの治安は極度に悪化
これにより、アッシュール遺跡は研究者による発掘調査はおるか、破壊を受ける事態になっています。
現在もアッシュール遺跡は危機遺産のリストから外れておらず、多くの研究者がその行く末を危倶している遺跡のひとつでもあります。