オリエント メソポタミア都市国家

アッシリアの大王アッシュールバニパルの生涯

サルゴン朝アッシリア、その版図は遂にエジプトを支配下になる瞬間に……

アッシリアの王エサルハドンは、一時はエジプトのメンフイスを攻略し、再び遠征へと繰り出そうとするが、そこで急逝してしまいます。

その遺志を継ぎ、親子2代にわたる空前絶後の繁栄をアッシリアにもたらしたのですが、エサルハドンが生前から後継者に指名していたアッシュールバニパルです。

"アッシュール神の後継者”の名を持つ彼の栄光の業績と王国の凋落を追ってみたいと思います。

父エサルハドンの活躍と後継者アシュール・バニパル

エサルハドンの戦勝記念碑/Wikipediaより引用

紀元前7世紀前半、エサルハドンの統治下で、アッシリア王国はバビロニアをはじめとするメソポタミア諸国を支配する列強国となっています。

エサルハドンはまずはメソポタミア南部の「海の国」を平定します。

さらに、エラム王国との平和協定を結んで南部・東部での地盤を固めると、北部遊牧民の侵入を抑えて国家の安定を図ります。

エサルハドンは精力的に領土の拡大に努めるかたわら、存命中に2人の後継者を選ぶことになります。

長男シャマシュ・シュム・ウキンはバビロニアを、その腹違いの弟であるアシュール・バニパルはアッシリアの統治を命じられました。

だがその実態としては、アシュール・バニパルを実質的な後継者に指名したも同然の決定だったといええるでしょう。

というのも、アッシリア王国の本拠はいうまでもなくアッシリであるためです。

しかし、これでは長兄シャマシュ・シュム・ウキンが快く思うはずはありません。

ともかく、後継者を指名したエサルハドンは後顧の憂いを絶つために、反乱を起こした西部のシリア諸都市を制圧し、さらにそのバックについていたエジプトへも侵攻の手を伸ばします。

エサルハドンはフェニキアの一部の勢力を抱き込みにかかり、一時はメンフィスの制圧に成功

これにより、エジプトはアッシリアへの貢献を誓い、監視のための出先機関も置かれることとなりました。

アッシュール・バニパルによるアッシリアの拡大

アッシュルバニパルによるバビロン侵略/Wikipediaより引用

ところがそんな矢先、エジプト再遠征の途上でエサルハドンが急逝

不穏な空気の中王位に就いたアッシュール・バニパルだったが、すぐその頭角を現すことになります。

まず、アッシュール・バニパルは父王が完全に手中ぶ納めることのできなかったエジプトを手に入れるべく、中断していた遠征計画を再開

アッシュール・バニパル本人の記録によれば、アッシュール・バニパルは自らアッシリア軍を率いてエジプトを打ち破り、

テーベを占領、エジプトを支配下に組み込み、あふれんばかりの財宝を携えて首都ニネヴェに凱旋を果たしたと言われます。

それに飽き足らないアッシュール・バニパルは、南東で勢力を拡大させていたエラム王国を次なる標的に定め、エラム王国のテウマン王とその息子を殺してエラムの半分を属国にします。

このように当時のアッシリアはまさに飛ぶ鳥落とす勢いでしたが、そんな中ある急報が飛び込むことになります。

兄シャマシュ・シュム・ウキンが近隣諸国と結託し反旗を翻します。

兄がもともと不満を抱いたのは言うまでもないが、弟のアッシュール・バニパル方でもバビロニアの内政に干渉していました。

エラム遠征で描かれた戦車に乗るアッシリアの兵士たち。/Wikipediaより引用

さらにバビロニアの神殿の修復をアッシユール・バニバルの命で行われ、最終的な軍事権もアッシユール・バニバルが掌握していました。

さらに、アッシュール・バニパルは以前からバビロニア各地の官僚と頻繁に書簡を交わし、常に情報を仕入れていたようです。

兄シャマシュ・シュム・ウキンによる内乱は起こるべくして起きたといえるでしょう。

バビロニア側には、アッシリアに従属を強いられたカルデア人とアラム人の諸部族、それに西方のアラブ人諸部族などが加担しました。

兄が蜂起したと聞くや否や、アッシュール・バニパルは即座にバビロニアの人々に宛てて書簡を送っています。

「バビロンの市民たちよ。もはや兄ではないシャマシュ・シュム・ウキンが語った虚言を余もすべて聞いた。しかし、その言葉を信じてはならない」

アッシュール・バニパルはおなじ内容の書簡を周辺の都市にも送り、南部の有力な都市であるウル、ウルク、エリドゥなどを味方につけました。

万全を期したアッシリアは、翌年バビロニア鎮圧に乗り出し、反乱を起こした都市は次々と軍門に降ることになります。

バビロンも2年間の包囲戦の果てに陥落し、市街には火が放たれその紅蓮の炎の中で、シャマシュシュム・ウキンは没したと言われています。

実は教養が高いアッシュール・バニパル

アッシュールバニパルの獅子狩り/Wikipediaより引用

アッシュール・バニパルは軍事に長けた王でしたが、非常に知識豊かで優れた文才の持ち主でもあったと言われます。

当時の識字率は低く、また書記という専門職を置いていたために、王自身が文章を読める必要はありませんでした。

しかし、アッシュール・バニパルはアッカド語やシュメール語を難なく読み解いたようです。

また数学の難解な問題や、古代の失われた文字もアッシュール・バニパルは理解できました。

アッシュール・バニパル自ら「余は知恵の神アダパの秘伝を授けられ、神の知恵を得たため粘土板にあらわされるすべての楔形文字を完全に理解した」と豪語しており、食欲に書物を収集しては読みふけっていたようです。

アッシュール・バニパルはとくにバビロニアの文学や宗教関連の書に興味を持ち、各地に保存された文章を書き写させてニネヴェヘ送らせています。

ニネヴェヘと集められた各地の文書は王の図書館に保存され、収集された粘土板の文書は数万を超えていました。

その一部は現存しており、古代メソポタミアや楔形文字研究の貴重な資料となっています。

また、アッシュール・バニパルは読書以外に狩猟も趣味としていたようです。

当時、アッシュール・バニパルの嗜みとされたライオン狩りを行うアッシュール・バニパルの姿が、ニネヴェの神殿レリーフに刻まれています。

狩りは多くの人々によって準備が行われたようで、ライオンは徐々に追い詰め、アッシュール・バニパル自らライオンにとどめをさす雄々しい姿が描かれています。

アッシュール・バニパル死後のアッシリア

ウジェーヌ・ドラクロワ作 サルダナパロスの死:アッシリア王サルダナパロスはアッシュール・バニパルをモデルとされている/Wikipediaから引用

兄弟間に起きた争いを収めた後のアッシュール・バニパルに関する資料は非常に少なく、不明な点が多いのです。

残されたわずかな記録などから類推する限りでは、各地の反乱を抑えたアッシュール・バニパルの後継者選びもまた失敗だったといえるでしょう。

アッシュール・バニパルの死後、アッシュール・エテル・イラニが後を継ぎ3年ほどアッシリアの王座に就いたが、側近によって王位を簒奪されてしまいます。

その後すぐに、王位はアッシュールバニパルのほかの息子によって奪還されますが、内政の混乱は属国の台頭と隣国からの侵攻を招くことになります。

アッシュールバニパルが死亡した頃の帝国の版図。深緑はアッシリアの属州/Wikipediaより引用

バビロニアではアッシリアの混乱によって1年間王位が空白となり、そのすきをついて「海の国」がバビロニア地方をアッシリアから奪い取り、新バビロニアを成立させます。

さらに東部からメディア人の侵入を許し、結局アッシリアは、新バビロニアとメディアによる同盟軍によって滅亡に追い込まれてしまいます。

国を失ったアッシリア人の一部はエジプトへ援助を求め、これにエジプトのネコ2世が応じて援軍を送りまう。

しかし勢いに乗る新バビロニアの前にこれも破られ、アッシリアは完全に再起のチャンスを逸してしまいます。

こうしてメソポタミア全域に空前の一大勢力を築いたアッシリア国は二度と復活することなく、完全に減び去ってしまいました。

アッシュール・バニバルの治世は絶頂にして、アッシリア王国最後の瞬きだったっということができるでしょう。

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