オリエント メソポタミア都市国家

世界帝国アッシリアの軍隊とは、残忍かつ恐怖の軍団の興亡

メソポタミア諸王国を圧倒的な軍事力で征服しメソポタミア最大規模の王国を築き上げたアッシリア。

この王国は反逆者や対する者には容赦ない刑罰を科したことから、その残忍性は現在でも有名です。

アッシリア軍を残忍な行動に駆り立てたものとは、いったい何だったのでしょうか。

貿易国家だったアッシリア

機動力の高さでオリエントを席巻したアッシリア騎兵隊のレリーフ/Wikipediaより引用

地中海からペルシア湾に至る広大なメソポタミア地域を治め、最盛期にはエジプトまでを併合して巨大王国を打ち立てたアッシリア人

しかし、アッシリア人らは、メソポタミア統一の功績よりも、その残忍性をもって語られてことの方が多いです。

アッシリア人の故郷はメソポタミア北部の丘陵地帯アッシュールのだとされます。

このアッシュールという地は、当時の技術では灌漑が難しく農耕に適さない辺境にありました。

しかし、南はバビロニアからペルシアへ、西はシリアを経てフェニキアに至る交通の要衝に位置していいます。

これが文明を発達し都市間の交流が盛んになります。

アッシリアの交易によって豊富な財力を得たアッシリア人は、その経済力を背景に軍備を増強し、周辺地域の侵略を開始します。

紀元前20世紀頃にまだ、地方都市のひとつにすぎなかったアッシュールは、紀元前19世紀頃には強大な独立国家「アッシリア王国」へと成長します。

紀元前1813年頃に王に即位したシャムシアダト1世は自らを「世界の王」と称するまでになりました。

その後、さらに領土を拡大したアッシリア王国は、紀元前14世紀にはエジプトのファラオとも対等な外交関係を築くまでに至ります。

そして、隣国のミタンニ王国の内紛に乗じて、後にアッシリア王国の首都となる「ニネヴェ」を占領。

紀元前13世紀にはバビロニアをも征服してメソポタミア統一を果たしました。

この快進撃を支えたのは、最新の軍備と用兵でした。

当時のアッシリア軍は、他国に先駆けて、堅牢で切れ味鋭い鉄製の武器を兵士に持たせていた上、強力な投石器も実戦配備されていたのです。

兵力は戦車を主力に、槍兵、弓兵、盾兵といった直接戦闘に参加する部隊のほか、 川越えや城壁を突破するための、現代でいう工兵部隊も編成されていました。

特に工兵の存在は当時としては画期的で、アッシリア軍に多くの戦果をもたらしたようです。

しかし、紀元前12世紀に入ると 「海の民」と呼ばれる対抗勢力があらわれてアッシリア王国は衰退し、逆にバビロニアの属国に成り下がってしまいます。

しかし、100年足らずで再び勢力を持ち直すと、遂にその支配地域を東地中海海岸にまで拡大。

その後、再び衰退期が100年間ほどつづくものの、やがて国勢を復活させたアッシリア王国は、積年のライバルであるバビロニア軍を撃破します。

加えて西方にも情け容赦のない遠征を繰り返し、再び地中海地方を手中に収めました。

このとき、アッシュール・ナシルバル2世は、これまで軍隊の主力だった戦車隊を改め、より機動力の高い騎兵隊を世界ではじめて組織したことで知られています。

アッシリア軍の残忍さ

エジプトの囚人を運ぶアッシリア人/Wikipediaより引用

このように、アッシリア王国は次々と隣国を攻め滅ぼして支配地域を広げていったが、その戦いぶりは、勇猛を通り越して残酷なほどでした。

この時代の遺跡には必ずと言ってよいほど放火の跡があるが、おそらくはアッシリア軍の仕業と考えられます。

また、占領後も徹底した恐怖政治を敷き、敵国の指導者や、アッシリア王国に反逆を企てた者に対しては必要以上に残忍で情け容赦のない処刑を行ってきました。

中でも紀元前883年頃に即位したアッシュール・ナシルバル2世の時代に行われた征服戦は、王自身が書かせたとされる記録からその詳細を知ることができます。

それによれば、アッシュール・ナシルバル2世は軍を率いて山の峰々を襲い、人々を殺し、山を血で赤く染めたと言われます。

そしてアッシュール・ナシルバル2世の軍は略奪を行い、歯向かう兵士たちの首をはね、うずたかく積み上げて柱を作り、女子供の区別なく炎の中へと投げ込んだようです。

さらに謀反を起こしたものは、臣下であれ、役人であれ手足を切り落とされたようです。

そして、見せしめのために皮を剥ぎ、市の門に面して立てられた柱にその皮を巻いていました。

また皮を剥がされなかった謀反者たちは柱の中に塗り込められるか、体に杭を刺して柱に突き立てられたといわれます。

しかも王はこれらの処刑をむしろ自らの行った偉業として書き連ねています。

アッシリア人による囚人へ拷問するレリーフ/Wikipediaより引用

ナシルバル王のエピソードはとくに強烈ですが、アッシリア王国の歴代王は、多かれ少なかれ残忍でした。

そして命令に従い、平然と人々を虐殺していくアッシリア軍に人々は恐れおののいたことでしょう。

ではなぜアッシリア軍はどこまでの残忍性を持っていたのでしょう。

その理由は広大な地域と、征服した多くの民族を統治しいくには、自分たちに逆らう者がどうなるか、

直接目で見せわからせることが一番効果的な方法だったのでしょう。

当時はすでに楔形文字が発明されていたとはいえ、文字を読み書きできるのは専門教育を受けた書記官と、王族や神官でも一部のインテリだけです。

一般庶民は読み書きができませんでした。

つまり、アッシリア軍の残忍さとは民衆に恐怖心を植えつけ、反乱を抑制する占領政策だったのでしょう。

なお、現在ではアッシリアの残忍さを伝えるエピソードにはかなりの誇張があったと主張する研究者もいます。

現に、楔形文字の解読によるとアッシリア箙は20万人だという記述があるが、ほかの条件を考えるとどう見てもこの数字は多すぎで、最大限に見積もっても15万人。

もしかしたら5万人程度だろうという説までもあります。

もしこの情報が事実であれば、アッシリア人は、誇張によって自分たちを権威づけることを意図的に行っていたということになります。

しかし、事実であれ、誇張であれ、残忍さをことさら前面に押し出した宣伝戦略はかなり効果があったことは間違いないでしょう。

アッシリア王国に恐れをなして、戦わずして自ら属国となる国も多かったようです。

それらの国はアッシリアの属州、すなわち事実上の植民地となり、多くの貢ぎ物をアッシリア王国に差し出しました。

また、属州の軍隊はアッシリア軍となり、最前線に駆り出されていきます。

アッシリア王国の滅亡

ジョン・マーティンによる銅版画「ニネヴェの陥落」/Wikipediaより引用

その後もアッシリアは地中海地方のみならず、シリアー帯や、北方のウラルトウ王国などを次々と征服していきます。

さらに一度は敗北したバビロンも再び攻め落としました。

そして、紀元前680年頃に即位したエサルハドン王は、騎兵隊に欠かせない良馬を求めてテヘラン東側まで遠征、

さらに地中海方面の反乱軍を支援していたエジプトを攻盤して首都メンフィスを占領します。

ここに、古代文明として二大勢力を誇ったメソポタミアとエジプトは統一され、アッシリアは最盛期を迎えるのです。

しかし、アッシリアの滅亡はあっけなく訪れます。

もともとバビロニアでは恒常的に反乱が発生していた上、北方の騎馬民族スキタイ人の侵攻が激しくなります。

国内的にもアッシュ―ル・バ二バル王の死後、後継者争いが発生し、アッシリアはその勢いを急激に失います。

これを好機と見たバビロニアの提督は、紀元前627年頃に反乱。

つづいてバビロニアの提督ナボポラッサルが反乱の指導者となって新バビロニア王朝を樹立しアッシリアと対立します。

さらには紀元前615年、東方のイラン高原で勢力を増やしていた。

メディア軍が兵を挙げ、新バビロニア軍と連合を組んだ。

そして紀元前612年夏、連合軍はアッシリアの首都ニネヴェを包囲し、2カ月後に陥落させた。

アッシリアはハランに亡命政府を構えて抵抗をつづけるも、紀元前610年最後の抵抗もむなしく滅亡するに至る。

アッシリア王国は、その残忍な恐怖政治によって広大な領地を治めることに成功します。

同時にその残虐なふるまいは多くの敵を作ることにもなり、1200年かけて作られた巨大王国は、最盛期からわずか20年足らずであっさりと滅亡してしまったのです。

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