オリエント メソポタミア都市国家

メソポタミアの王都バビロンの興亡の歴史と都市の全貌

バビロンとはアッカド語で「神々の門」を意味します。

言葉に由来するこの都市はその名の通り集う場所として、メソポタミア世界の中心となりました。

新バビロニア、ネブカドネザル2世の時代にはバベルの塔のモデルとなったジグラッド

さらに世界七不思議のひとつの空中庭園など……

数多くの美しい荘厳な建築が立ち並ぶ世界最大の人口を誇る都市であったといいます。

聖書にも登場し、さまざまな伝説に彩られた巨大都市、バビロン。

その本当の姿を探ってみましょう。

古代人が見惚れた伝説の都バビロン。

17世紀のヨーロッパ人が描いたバビロン想像図/Wikipediaより引用

古代ギリシャの歴史家ヘロドトスはバビロンをこう評価しています。

「バビロンは、我々の知る限りほかに類を見ないほど美しい整備された街である。」

紀元前5世紀の半ばにバビロンを訪れたといわれるヘロドトスは、シュメール人によって築き上げられたこの都市の美しさに圧倒されていました

ヘロドトスの著書『歴史』には、バビロンの様子が詳しく記されている。

「満々と水をたたえた深く広い濠が街の周囲に巡らされている。街は2重の城壁で囲まれており、そこには100の門がある。街は3、4階建ての家がぎっしりと立ち並び、まっすぐな道路で仕切られている。」

そこからは、バビロンの整然とした街並みを思い起こすことができます。

しかしその一方で、バビロンは驕れる人間たちによって築かれた、背徳の都であったとも伝えられています。

『旧約聖書』の物語であるバベルの塔はここバビロンに築かれたジグラットをモデルとしていますが

物語の中で塔を築こうとした人々はその傲慢さから、神によって互いに言葉が通じないようにされてるという悲惨な物語を記します。

また『新約聖書』の中のひとつ、ヨハネの黙示録では、バビロンは「悪霊どもの蝋」「汚れた霊の巣窟」などと称され、堕落した人間の象徴とされています。

ヘロドトスによってその美しさをたたえられるその一方で、背徳の都とも伝えられる都市、バビロン。

その本当の姿とは、どのようなものだったのでしょうか。

神の都「バビロン」の誕生。

バビロンの復元図/Instagramから引用

メソポタミア、ユーフラテス川のほとりにバビロンという都市が誕生したのは、紀元前19世紀のことだといわれています。

バビロニア第1王朝の始祖スムアブムは、

チグリス・ユーフラテス川を利用した貿易ができること、

周辺の肥沃な平原を利用して農業ができること、

川に挟まれ敵からの防衛策をとりやすいこと

以上のことからこの地に首都バビロンを建設しました。

スムアブム以降、バビロンは歴代の王によって拡大が繰り返され、城壁や城郭、神殿などが築かれていきます。

当時、メソポタミアの都市国家にはそれぞれ都市を守護する神が定められていました。

6代目の王ハンムラビによってメソポタミアが統一されると、バビロンの守護神であるマルドゥク神がメソポタミアにおける主神とされることになります。

これはハンムラビによる、宗教を利用した一種の支配戦略でした。

バビロンの守護神が神々の頂点に立てば、その神が守護するバビロンもメソポタミア世界の頂点であると人々に認めさせることができたのです。

こうして、バビロンはさらに飛躍的な発展を遂げることになります。

都市を囲む城壁はさらに強固なものになり、神殿はより大きく、立派なものへと改築が繰り返されました。

さらに、ハンムラビの治世のもとで大きく発展することになります。

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いまやメソポタミア全土の政治的、宗教的な中心地となった大都市バビロンに多くの人々は憧れ、そこに住みたいと望むようになりました。

バビロンには職人や商人、知識人などが集まり、神話や文学、天文学や美術品などといったさまざまな文化が花開いていったのです。

バビロンの興亡の歴史

ペルシア人によるバビロン侵攻図/Instagramから引用

大きく、華やかな都市へと発展し、人々の羨望の的となったバビロンは、一方で常に侵略の危機にさらされていました。

紀元前1750年にハンムラビが没すると、都市バビロンは相次ぐ侵略と征服によって、波乱の時代を迎えることになります。

紀元前16世紀頃になると、バビロニアは異民族であるカッシート人の侵略を受け、バビロンはその支配下に置かれました。

カッシート人の支配は350年以上つづいたが、バビロンはその間エジプトなどと外交を結び、再び都市としての力を取り戻していきます。

時代が下り、紀元前13世紀頃になるとバビロニアは北西の大国アッシリアによって征服されてしまいます。

しかしアッシリア人はバビロンの優れた文化を尊敬し、むやみに街を破壊するようなことは避けました。

だがバビロンの住民にとっては、たとえ自らの文化が尊重されたとしても、他国によって支配されていることには変わりません。

彼らはバビロンが再び自分たちの手に戻ることを、ずっと待ち望んでいました。

そんな中、バビロニアの総督であったナボポラッサルは反乱を起こし、アッシリアからの独立を果たします。

こうして誕生した新バビロニアは、その後イラン高原で勃興したメディア王国と手を組み、遂にはアッシリア滅ぼすまでに成長します。

こうしてアッシリアの領土を手中に収めた新バビロニアはこれまでにないほどの大帝国となりました。

ナボポラッサルの息子ネブカドネザル2世の代になると国の勢力はますます増大させます。

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新バビロニアにエジプト国境とシリア・パレスチナの沿岸部からイランに至る広大な地域を支配するようになります。

そしてその首都バビロンは、当時において世界最大の人口を誇る、空前の巨大都市へと成長します。

バビロンの都市構造

CGによるバビロンの復元図/Instagramから引用

ネブカドネザル2世の治世のもと、かつてないほどの繁栄を迎えたバビロン。

その都市の構造はどのようなものだったのでしょうか。

バビロンはユーフラテス川を挟んで旧市街地と新市街地に分かれており、その周囲は城壁によって守られていました。

この城壁は3重になっており、最大で7‘8メートルにもなる分厚いものでした。

その周囲は85キロメートルにもおよび、バビロンの一番北にある夏宮殿から旧市街地全体を大きく囲んでいたと言われます。

また壁の外側には50メートル'l幅の濠が掘られ、外敵の進入からバビロンを守っていました。

彼はこの3重の壁を自ら「強い壁」と呼び、大いに誇っていたと言われます。

ネブカドネザル2世は、さらにこの壁の内側に、新旧市街地を取り囲む2重の防壁を打ち立てました。

それまで建築物に使われていたレンガは単に天日で乾かしたものだったが、この防壁にはより強く耐久性の高い焼きレンガを使用。

さらにレンガをつなげるためには従来のアスファルトではなくモルタルを用いて強度を増していました。

城壁には、それぞれ神の名をつけられた8つの大きな門が存在。

門は街路を経て、街の中心部へとつながっています。

その中でも、北に設けられたイシュタル門は街の主門でした。

戦いの女神であるイシュタル神の名を冠するこの巨大な門は、特殊な加工を施して青く色づけされたレンガでできていました。

エナメルのように青く輝く門壁には、守護神マルドゥクをあらわす竜と、アダド神のシンボルである牡牛が交互に浮き彫りになっています。

バビロンを取り囲むこの巨大な城壁は、彼が築いた空中庭園と並んで世界七不思議のひとつにも数えられていました。

ネブカドネザル2世が力を入れたのは、都市の防衛だけではありません。

ネブカドネザル2世はバビロンにある多くの神殿を修復・拡張し、神像を立て、美しく装飾してあります。

バビロンの図面/Wikipediaより引用

当時、王の一番の役割とされていたのは、主神マルドゥクをはじめとする、あまたの神々を手厚く祀ることでした。

神を敬ってバビロンの威信を保つことは、国を維持していくうえで必要不可欠だったのです。

バビロンには実に43もの神殿があり、その中心には主神マルドゥクのための大神殿が置かれていました。

数々の神殿の中でも、この大神殿はもっとも壮麗に飾り立てられ、中庭を含むその総面積は、実に8000平方メートルにもなったといわれます。

その北側の隣には「エテメンアンキ(天地の基礎となる家)」と呼ばれる大ジグラットがそびえ立ち、その壮大さゆえにバベルの塔のモデルとなったと考えられています。

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バビロンの守護神マルドゥクが主神として宇宙の中心に置かれるとすれば、バビロンの王もまた、世界の中心でなくてはなりません。

王はその権威に見合うよう、王宮の修復や拡張、装飾にも力を注ぎました。

イシュタル門のすぐ側にある北の王宮は、新バビロニアの始祖ナボポラッサルの築いた城であり、都市の主城でもあります。

その内部には、王の居所や、数々の戦いで獲得した、銅像や石碑、文書などの戦利品が所蔵される美術館が置かれていたといわれます。

イシュタル門をくぐると、右手には南の王宮が見え、北の王宮同様美しく飾られ「民が賛美する王宮」と呼ばれました。

王宮にはタイル張りの5つの中庭があり、そこには官僚の住まいや公共施設などが設けられ、こからは、ネブカドネザル2世の築いた空中庭園が見えたといわれています。

階層式テラスの上には緑や果樹が生い茂り、まるで宙に浮かぶかのように見えたと言われます。

巨大で壮麗な建物に囲まれたこの美しい庭園の眺めは、まさに世界の中心地としての権威を誇ったバビロンにふさわしいものだったのでしょう。

イシュタル門からつづく街路もまた、巨大なものでした。

イシュタル門の想像図:門をくぐると、右手には南の王宮が見える/Instagramから引用

「バビロン通り」と呼ばれたこの通りの1幅は16メートルにもなり、南の宮殿、エテメンアンキ、エサギラを横目に街を南北に通っています。

重要な祭儀のひとつである新年祭には、この通りを神の像を乗せた大きな車が行進しました。

舗装された通りの左右は66センチメートル四方の石板で舗装され、そこには1枚1枚、次のような文字が刻まれています。

「私はネブカドネザル、バビロンの王、ナボポラッサルの子。私は通りを、偉大なる主マルドゥクの行列のために石板で舗装した。主なるマルドゥクよ、永遠の生命を与えたまえ。」

ネブカドネザル2世は、マルドゥク神の加護のもと、バビロンが永遠に生きつづけることを願っていたのです。

ネブカドネザル2世の時代、バビロンには一説によると50万人もの人が住んでいたともいわれます。

ほかの都市の人々から羨眼差しを受けたという彼らの住まい、どのようなものだったのでしょうか。

バビロンでは人口の増加に伴って新市地が造成され、川の向こうにある旧市街地とは巨大な石橋でつながっていました。

この石橋は最古にして最大の石橋であり長さは実に123メートルにも及んだといわれます。

街の重要な決定や祭事などは、旧市街地にあるマルドゥク神殿の前で行われます。

そのため、新市街地に住む人々はそのつど長い石橋を渡らなければならず、非常に不便でした。

ヘロドトスの『歴史』によると、バビロンには3,4階建ての家がぎっしり立ち並んでいたとされます。

実際のところ、民家のほとんどは1階もしくは2階建てであったと思われます。

彼が目にしたのは、おそらく富裕層も家が建ち並ぶ地区だったのでしょう。

民家はレンガを重なった建てられ、熱風や強い日差しを避けるため、窓はほとんど避けられなかったようです。

屋上は平らで、また家と家の間も狭かったため、そこはしばしば人々の社交場となったと考えられます。

神の都バビロン、終焉の歴史

バビロンの遺構:かつては絢爛豪華な都市が存在した/Wikipediaより引用

バビロンはネブカドネザル2世によって、大いなる繁栄を遂げます。

しかし「バビロンに永遠の命を」という願いもむなしく、彼の死後、その繁栄が長くつづきませんでした。

紀元前539年、新たに勃興したペルシア帝国の王キュロスによって、バビロンは征服されてしまいます。

ペルシア帝国の中でもバビロンは豊かな都市として位置づけられたが、政治的な主導権を失ったことで、都市の力も次第に勢いを無くしていきます。

バビロンがペルシア帝国に下った約200年後、アレクサンドロス大王によってペルシア帝国は滅亡します。

バビロンも彼によって征服されたが、その直後、アレクサンドロスは病に倒れ、バビロンで死去してしまいます。

アレクサンドロス亡き後、バビロンは彼の部将セレウコスによって支配されます。

セレウコスはバビロンの修復に尽力しましたが、紀元前122年にバビロンがパルティア人の手に渡ると街は衰退の一途を辿り、やがてバビロンは砂漠に埋もれることに…

そんなバビロンが再び人々に知られるようになるのは、1899年のことになります。

ドイツの考古学者、ロベルト・コルデヴァイを中心とした発掘隊によって、はじめてバビロンの本格的な調査が行われます。

コルデヴァイらは、北の宮殿があったと思われる遺丘から発掘を開始し、14日目にはバビロンの市街地を守った2重の防壁を発見。

「このようなものを、これまで発見したことはない。」防壁を見つけたコルデヴァイは狂喜したが、発見はそれにとどまらなかった。

防壁の発見を皮切りに、バビロンの巨大な建築物が次々と出土し始めたのです。

その後も発掘はつづけられ、バビロンの全貌が少しずつ明らかになっていきました。

今後、イラクの情勢が落ち着けば、神の都バビロンのさらなる全貌が見えてくるでしょう。

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