オリエント メソポタミア都市国家

メソポタミアの覇王ハンムラビの功績と古バビロニア王朝の誕生

「目には目を歯には歯を」の文言で有名な「ハンムラビ法典」

この法典を制定した人物は古代メソポタミアの王であるハンムラビという人物です。

彼はメソポタミアの古バビロニア王国を都市国家から強大な帝国へ繁栄させた強力な王です。

加えて、ハンムラビは政略に長け、時に悪名の高い覇業も行う非情な一面も持ち合わせていたようです。

さまざまな民族が交錯した戦国時代のようなメソポタミアを制覇し、メソポタミアに一大統一王朝を築いたハンムラビですが、

いったどのような人物だったのでしょうか?

覇王とよばれたハンムラビの生きざまを追ってみたいと思います。

ハンムラビ登場以前のメソポタミア

ウルのジッグラト:シュメール人によって建設させる。シュメール人の高度な文化や建築技術を持ち、これらもバビロニアは受け継ぐことになる/Wikipediaより引用

世界最古の文明が花開いたメソポタミア。

この地はチグリス川とユーフラテス川に挟まれた肥沃な大地を巡り、さまざまな民族がしのぎを削って覇権を争ってきました。

メソポタミアの黎明期の歴史について軽く触れるのであれば、メソポタミア文明はシュメール人の歴史から始まります。

彼らは紀元前2500年頃には統一国家としてウル第1王朝を誕生。

しかしサルゴン1世率いるアッカド人が侵入し、さらに西方からアムル人、東からはエラム人が侵入し紀元前2000年頃のシュメールは崩壊します。

しかし、シュメール人が築いた文化はその後もメソポタミアにおいて継承されていくことになりました。

この後のメソポタミアの地はウル第1王朝以前のような都市国家が跋扈し、群雄割拠の時代に突入します。

ウル第1王朝を中心としたシュメールの勢力図:/Wikipediaより引用

このウル第1王朝以降のメソポタミアの争乱は約2世紀ほど続き、やがて、勢力を伸ばしていくのはシューメル人ではなく西方からやってきたアムル人でした。

アムル人は本来シリアのビジュリ山周辺を中心にした遊牧民族であり、そのアムル人はバビロンを中心にメソポタミアで活躍して最終的にメソポタミアを統一します。

これを統一したのが、ハンムラビになります。

ハンムラビに立ちはだかるメソポタミア四大勢力

ハンムラビ即位当時のメソポタミアの勢力図

ハンムラビ即位当時のメソポタミアの勢力図:多くの都市国家が鎬を削り覇権を争った。

群雄割拠の時代を背景にハンムラビが登場することになりますが…

まずはハンムラビの登場以前のメソポタミアの情勢を整理したいと思います。

ウル王朝の崩壊後、メソポタミアの南と北では2つの政治勢力が強大化していました。

バビロニアの南の河口部では"イシン"と"ラサル"が対立している状況でしたが、ラルサ王朝はリムシンという王の代になるとイシン王朝を征服して、南メソポタミアの地を支配下に治めます。

一方、北部ではウルの没落後ほどなく建国された"アッシリア"が強大な帝国として発展していた状況です。

半遊牧民の王シャムシアダト1世の代に、チグリス川沿岸のアッシュールを奪ったことに始まり、さらに勢力を広げて、遠くアナトリア、地中海に至るまで影響を及ぼす強大な国家を築き上げました。

シャムシアダトは周辺に並ぶことなき勢力を築き上げ「全世界の王」を名乗るほどの勢いであったようです。

さらにユーフラテス河西方に"マリ"という高度な文化とユーフラテス西岸の貿易を支配して経済力をもつマリという国……

またユーフラテスの東方には"エシュヌンナ"という勢力がチグリス川流域まで侵出し、やがてチグリス川流域の貿易で重要な地位になっていきます。

ハンムラビはこれらの強国が抗争する熾烈な情勢の中で、メソポタミア中部に位置するバビロニアの王子として誕生します。

ハンムラビの登場とバビロニアの戦略

ラルサの民によって作られたハンムラビの彫像/Wikipediaより引用

紀元前1790年頃、ハンムラビはバビロニアの王位を継承します。

そのときのバビロニアは一勢力として多数の都市を支配していましたが、北にシャムシアダト率いるアッシリアと南にはリムシン率いるラルサという二大国家に挟まれている状況でした。

こうした状況下の中で、ハンムラビは即位し冷静に自身の状況を理解してアッシリアに従うことを選びます。

こうしたことで、バビロニアの安全を確保しようと目論見ました。

当時のアッシリアは、西方のマリとの対立状態にあり、南方のラサルの緩衝地帯としてバビロニアを選択したようです。

この協力関係によって、北方の後ろ盾を得ることが可能となり、ハンムラビはその在位7年目にウルクやイシンに対して勝利

さらに、在位10年目には、東方のエシュヌンナに遠征し、その他の都市国家に遠征してバビロニアの領土を拡大していきます。

こうした一連の活躍から、メソポタミア各地で小国ながら戦上手としてハンムラビは勇名を轟かせることになりました。

そんなハンムラビの転機となるのが、年数こそ残されていませんが、在位十数年目のときに迎えたアッシリアの王シャムシアダトの死になります。

即位当時から常に彼の大きな後ろ盾となっていた大国の覇王を失ったハンムラビにとって、これは大いなる危機と言えるかもしれません。

ハンムラビ征服後のバビロニアの地図/Wikipediaより引用

そして、ハンムラビが戦上手な君主でない手腕を見せつけられるのはここからになります。

ハンムラビは自分の軍事的名声やジャムシ・アダトの死によるメソポタミア各勢力の不均衡状態、

さらにメソポタミア中心部に位置するという地の利を活かして、積極的な外交戦略を行っていきます。

まず、ハンムラビはシャムシ・アダトの死によって著しく勢力を無くしていったアッシリアとの関係は維持

そして、ジャムシ・アダトの攻撃を受けて滅亡寸前にあったマリとの同盟するという高度な外交を行います。

当時のマリはアッシリアの攻勢に遭って滅亡の危機に瀕していますが、北シリアのヤムハドという国の強大な君主であるヤーリムリムと婚姻関係にありました。

このため、アッシリアの脅威が去った時にマリは十分に同盟に値する勢力であった

このことをハンムラビの慧眼は見抜きこのような外交を展開したのです。

メソポタミアを統一するハンムラビ

紀元前1792年から紀元前1750年にかけて造られたハンムラビ王が礼拝図/Wikipediaより引用

巧みな外交戦略で、ハンムラビはシャムシ・アダト死後のメソポタミアを「弱者の均衡」と呼ばれる状況を作り上げたと言えるでしょう。

マリの遺跡から出土した「マリ文書」によれば……

「ひとりで十分に強力な王はいない。

10ないし15の都市国家がバビロニアのハンムラビ王に従い、同じぐらいの数がラサルのリムシンに、

さらにおなじぐらいの数がエシュヌンナのイパールピエール王に、そしてヤムハドのヤーリムリム王には20の都市国家が従っている」

まさに均衡状態といえますが、それゆえにハンムラビが締結したマリとその後ろ盾であるヤムハドとの同盟を活かすことができます。

この均衡状態とバビロニア・マリ・ヤムハドの三国同盟を利用してハンムラビは「弱者の均衡」の中で力を蓄えていきます。

国内では支配下に置いた都市国家の城壁を整備したり、運河を開設したりして国力を充実させつつも、マリやヤムハドの同盟軍とともにラルサやエシュヌンナに少しずつ侵食していきます。

例えば、ハンムラビの軍門に降ったチグリス川沿岸のマルグムは、その後エシュヌンナとの間で奪い合いとなり、両国間の重要な前線になったようです。

このとき、活きたのがマリやヤムハドの援軍だったのでしょう。

「マリ文書」には何度もマリやヤムハドの軍がバビロニアを支援したことが伝えられています。

そうして国力を拡大していくバビロニアとハンムラビに対して、ようやく各国は警戒の目を向けるようになっていきます。

そしてハンムラビの在位30年目に遂に、大きな戦争に突入し、史書によればこの年、ハンムラビが戦った相手はどれもが強敵であったようです。

「雲霞のごとく蜂起した」との記録されるアッシリア、イランの山岳民族やエシュヌンナ、そして一度征服したマルグム、

これらのすべてにハンムラビ軍は大勝利を治めます。

ハンムラビの出陣時のイラスト/インスタグラムから引用

この天下分け目の大戦で強大な連合軍を打ちのめしたハンムラビは、シュメールやアッカドの地を制覇し、メソポタミアの王たる地位を掌握することになります。

さらにその翌年の記述に南の強国ラルサとその王リムシンにも打ち勝ったとあります。

つまり、長年の宿敵であったラルサまでもが、遂にハンムラビの軍門に降ることになります。

この戦いによってハンムラビはラルサが保有する南メソポタミアの地を支配下にし、一気に一大勢力として成長しました。

ラルサはバビロニアの都市としてハンムラビの賢明な統治を受け、戦後も拡大するほどであったと言われます。

かくして、遂に覇道を歩み始めるハンムラビの前に、アッシリア、エシュヌンナなどが立ちはだかろとしていましたが……

ハンムラビ率いるバビロニアにはもはや敵ではありませんでした。

ハンムラビの在位32年にはアッシリア・エシュヌンナに勝利し、エシュヌンナに至っては「エシュヌンナの王位はハンムラビに譲りたい」とまでにさせるほど屈服させます。

しかし、メソポタミアの覇王となったハンムラビはエシュヌンナの王位などなにも魅力に感じなかったようです。

在位38年目には、ハンムラビはエシュヌンナの都市を水攻めで破壊するなど徹底的に抹殺します。

時期は前後するが覇道を歩むハンムラビにとっては同盟国のマリさせ服従させ、さらには弱体化しつつあるアッシリアをも征服

これによりハンムラビはメソポタミアを全域支配する王となったのです。

ハンムラビの「正義」による統治

ハンムラビ法典:282の条文が刻まれ、 ハンムラビ自身が神シャマシュの手でその法典を受け取る図が描かれている/Wikipediaより引用

かくして全メソポタミアの王となったハンムラビでしたが、その容赦ない征服や同盟国ですら容易に裏切るという冷徹さは、古代メソポタミアでは先駆的な存在でした。

そして、ハンムラビは運河や灌漑を整備し、民たちを豊かにし同時に有名な「ハンムラビ法典」を制定します。

しばしば「目には目を歯には歯を」といった復讐法として理解されがちなハンムラビ法典ですが、基本的には無制限な復讐をやめさせる法律であり、弱者保護の姿勢を貫いた法典でもあります。

また、南メソポタミアから出土したハンムラビの「自賛歌」では

「私は歯向かうものは殺し、その武器を砕き、その土地を蹂躙し、その住民を虜因し、その軍隊を鎮圧し、私に従わぬ者は足で踏みつぶした。

私はマルドゥク神の戦意を満足させ、彼の敵の手足を萎えさせる王、私に敵意ある者を追放し引きちぎり、

私の国内の人々には豊かな牧場を与え、我が国民に恐怖を与えるような者をひとりとして残さなかった」

とあり、ハンムラビは自分こそ正しい正義と信じ切った人物であり、自分の治世によるメソポタミアの統一こそ正義であるという信念をもった人物であったと見ることができるでしょう。

そして事実、メソポタミアの民たちはバビロニアの統治のもと約150年もの繁栄の時代を迎えることになります。

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