オリエント メソポタミア都市国家

ジャルモ遺跡から考える新石器時代の農耕の誕生史

人類が文明を誕生させる契機となった狩猟・採集生活から農耕生活への移行。

では、人類はいつどのように農業という技術を獲得し、定住するようになったのでしょうか?

イラク北東部で発見されたジャルモ遺跡はそのターニングポイントを探る上で重要な意味を持つ遺跡です。

中東地域に築かれたジャルモ遺跡の発掘成果をもとに、メソポタミア文明の基礎となった、最初期の農耕文化の実態を探ってみましょう。

ジャルモ遺跡の発見

1954年に発掘調査されたジャルモ遺跡/Wikipediaより引用

なぜ人類は農業を始めたのか?

人類史を考える上で命題ともいえるこの問いは、現在でも完全に解明されているわけはありません。

今から半世紀ほど前までは、「自然環境の変化」がその理由として挙げられていました。

その説の主張とは大まかにいって次のようなものです。

およそ紀元前8000年頃までの世界は、各地に豊かな森林や水源があり、人類はその自然に頼って狩猟・採集生活をしていた。

だが、その後環境の変化によって、土地は乾燥し、森林は砂漠に変わっていった。

そのため人類は、ナイル河やチグリス河、ユーフラテス河といった大河に寄りそって生きることを余儀なくされた。

そして限られた自然を有効に活用するために、農業を始めた。

だが本来、これらの大河付近の地域は農業には適していない。

とくにメソポタミア文明発祥の地である南メソポタミア地域は、降雨が冬季に集中し、植物が育つ夏季にはほとんど雨が降らず、気温も40度を超えます。

そんな過酷な環境で農業を行うには、用水路などで河川から水を引き入れる「灌概」が不可欠になります。

では、人類は潅慨という技術を獲得するまでは、農業を行っていなかったのでしょうか?

このように従来の説に疑問を抱いたのが、アメリカの学者R・J・ブレイドウッドです。

R・J・ブレイドウッドは、人類がエジプトやメソポタミアといった文明が誕生するよりもはるか以前から農業を営んでいたと推測。

それを実証するためにイラク北東部の丘陵地帯を発掘しました。

その結果、発見されたのがジャルモ遺跡です。

ジャルモ遺跡の生活環境

紀元前7500年頃、肥沃な三日月の面積と主要な遺跡の地図:ジャルモ遺跡もこの時代の主要な集落であった/Wikipediaより引用

ジャルモ遺跡は、現在のイラク北東部、ザクロス山脈の麓近くの丘陵地帯で発見されました。

北メソポタミアとも呼ばれるこの地域は、文明発祥の地である南メソポタミアとちがい、年間を通して一定数の降雨を望めます。

そうした環境では、灌漑を行わなくとも自然の雨水だけで植物が育てることが可能です。

ブレイドウッドは、こうした「天水農業」から人類は農業を始めたのではないかと推測。

その証拠を求めて、1948年から3回にわたって発掘作業を行うことになります。

そして、幅90メートル、奥行き140メートル、約1.3ヘクタールの広さを持つ集落跡を発見することになります。

遺跡からは、住居を構成していたと思われる粘土状の泥壁や、その土台として置かれた礎石が発見。

屋根部分は残っていないが、おそらく泥壁の上に木を並べ、わらなどで覆っていたと思われます。

また床部分は漆喰で塗り固められていたようです。

ブレイドウッドが1960年に発表した報告書によれば、ジャルモ遺跡にはこうした住居が20棟から30棟あって、集落全体で150人前後の人々が生活していたと推定されています。

また、遺跡の地面を掘り進めた結果、こうした住居跡が16層、約8メートルの深さで積み重なっていることがわかっています。

そして各層からは、打製及び磨製石器などが数多く出土しているが、土器が発見されたのは上部の5層に限られています。

このことから、ジャルモ遺跡の人々は無土器文化時代から、土器の使用を始めた新石器時代の間を生きていたことになります。

しかし、ジャルモ遺跡におけるもっとも重要な発見は、炭化した2種類の小麦と1種類の大麦の種子です。

この地域には、人類が採集生活を行っていた時代から、麦をはじめ野生の穀物が自生していました。

しかし、発見された種子は野生のものとはわずかに構造が異なっているのです。

どうやらジャルモ遺跡の人々は、ただ植物を採集するだけではなく、そのタネをまいて栽培を行っていました。

ブレイドウッドは、ジャルモ遺跡の年代を紀元前6750年頃と推定しています。

この発見以前には、紀元前4500年頃のナイル河河口付近の遺跡が最古の農耕集落だとされてきました。

しかし、少なくともそれより2000年以上も前に、人類はすでに農耕技術を狸得していたと思われています。

なお、古代エジプトの農耕についてはこちらで触れています。

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ジャルモ遺跡からわかる食生活

ジャルモ遺跡から出土した装飾品/Wikipediaより引用

では、ジャルモ遺跡をもとに、原初の農耕を行った人々がどのような暮らしを送っていたのかを見ていきましょう。

紀元前8000年頃までのザクロス山脈付近は、適度な降水量によって、人類が採集可能な植物が豊富に自生していました。

さらに野生のヒツジやブタなどもいたため、狩猟・採集民としては最適の環境だったといえるでしょう。

しかし、人口の増加によってしだいに野生動物が減少してしまい、人々は植物採集を主体に生活するようになります。

ジャルモ遺跡遺跡の最下層から出土した石器の中には、鎌の刃や、臼や杵などが含まれています。

持ち運びに不便な道具を用いていたということは、定住生活への移行を示していると言えます。

こうして集落を構えて生活するようになった人々が、天水農業を覚えたのも自然のなりゆきでしょう。

農業が始まると、収稚した作物を貯蔵するスペースが必要になります。

ジャルモ遺跡で発見された住居跡にも、寝室や居間とは別に、貯蔵を目的としたと思われる複数の小部屋の存在が確認されています。

中には泥土で造られた半球形のかまどを備えているものもありました。

これは食料を調理したか、あるいは穀物を熱してもみ殻をとりやすくするために使ったと考えられています。

またジャルモ遺跡からはヒツジやヤギなどの骨が発見されており、肉も食べていたことがわかっています。

しかし、これらは野生のものよりも小型で、おそらく家畜化されたものと考えられています。

ジャルモ遺跡の住居には中庭が確認されていますが、そこでこれらの動物を飼っていたようです。

こうした初期の農耕生活は、ジャルモ遺跡だけで行われていたわけではありません。

東はイランの高原地帯から、西はレバノンの海岸地域まで、ジャルモ遺跡とおなじく環境に恵まれた場所では、これに類する農耕集落が生まれました。

そして、それぞれの集落は互いに関係を持ちながら発展していき、やがて大河に寄りそって誕生する古代文明の時代へとつながっていくことになります。

ジャルモ遺跡かみる農耕の変化

イスラエル・イェリコにある世界最古級の農耕都市テル・エッ・スルタン遺跡/Wikipediaより引用

1948年にブレイドウッドによって発見された当初、ジャルモ遺跡は世界最古の農耕集落として大きな注目を集めました。

しかしその発掘から半世紀以上が経過した今日では、トルコのチャタル・ヒュユクやパレスチナのイェリコ、シリアのアブ・フレイラなど、

ジャルモ遺跡よりさらに古い時代の農耕集落が各地で発見されることになります。

その結果、現在では西アジア地域における農耕の起源は、今からおよそ1万1000年前頃~1万年前頃と考えられています。

しかしいずれにしても、これらの集落で営まれていたのは天水農耕です。

後にメソポタミア南部で行われていたような灌漑農耕と比べると、はるかに原始的な段階なものでした。

では天水農耕を手に入れた人類は、いかにして灌概農耕という次のステップへと移行したのでしょうか?

ジャルモ遺跡をはじめとする集落で発展していった天水農業は、人口が増加するにつれ、やがて限界を迎えることになります。

確かに豊富な雨量によって作物は自然と育ちますが、おなじ場所で何度も栽培を行うと、土地の養分は失われ、収穫量も落ちてしまいます。

耕作地を移せば作物はまた育つようになりますが、開墾できる土地にも限界があります。

そこで新たに生み出されたのが灌漑農耕です。

大河のほとりに集落を築いた人々は、やがて河の水を農地に引き込み始めました。

雨水とちがって豊富な養分を含んだ河川の水は農地を潤し、これによって土壌は活力を取り戻したのです。

しかし、この農法によって発展したのはジャルモ遺跡の位置する北メソポタミアではなく、より広大な平地が広がる南メソポタミアでした。

ジャルモ遺跡をはじめとする北メソポタミアの集落の多くは、その後放棄されてくことになります。

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