オリエント メソポタミア都市国家

メソポタミア文明誕生の歴史と都市国家の興亡

メソポタミアとは、ギリシャ語で「川の間」という意味が含まれたこの文明は、チグリスとユーフラテス川の間で誕生し、繁栄を極めます。

川の流域では、各地で都市国家が出現し、興亡を繰り返しながら勢力を拡大していきます。

そして、法や制度、科学などの文化も芽生えることになります。

今回はメソポタミア文明初期の都市国家の歴史的な流れを説明していきます。

メソポタミアを最初に統一したバビロニアとは?

ハンムラビ法典に描かれているハンムラビ(左側)と太陽神シャマ(左側)/Wikipediaより引用

紀元前2000年以降のメソポタミアは日本の戦国時代のような群雄割拠の時代でした。

各地域に都市国家が存在し、これらの勢力がしのぎを削って拡大と縮小を繰り返していた状況です。

そんな中で、メソポタミアの地に1つの王国が現れます。

新しくメソポタミアにやってきた民族"アラム人"によって建国されたバビロニアです。

紀元前1894年頃に興ったバビロニアは当初は弱小国でしたが、6代目の王であるハンムラビ王の登場で、メソポタミアの勢力図が格段に変わっていきます。

ハンムラビが即位して5年後、メソポタミアの南部の強国であったウルクやイシンを支配していき、その後もハンムラビは遠征を繰り返します。

南メソポタミアの都市国家の位置/Wikipediaより引用

最終的にはバビロニアは南メソポタミアの勢力をほとんど統治することになりました。

また、ハンムラビは「目には目を、歯には歯を」で著名な"ハンムラビ法典"をまとめたことでも知られています。

ハンムラビ法典はこの言葉以外にも行政や司法に関する法律を全282条にもわたって整えられていたしっかりしたものでした。

こうしたバビロニアはメソポタミア一帯を支配する帝国として君臨することになります。

しかし紀元前1590年頃、バビロニアの最初の王朝は小アジアの帝国、ヒッタイトの侵略を受けて滅亡してしまいます。

アッシリアの興隆と苦難

都ニネヴェの北宮殿を飾っていたアッシリア王アッシュールバニパル/Wikipediaより引用

そして同じ頃、メソポタミア北部にはミタンニ王国が誕生し、その勢力を伸ばしていきます。

ミタン二は東隣の大国アッシリアを支配下に治めていき、その領土はシリアまで拡大しました。

しかし、この北メソポタミアで覇を唱えたミタンニ王国も紀元前1350年頃、ヒッタイトの侵略によって支配されることになります。

ヒッタイトの侵略から20年後にはアッシリアはヒッタイトから独立し、再び強国としての歴史を歩みだします。

独立したアッシリアは紀元前900年頃から急速に勢力を拡大し、紀元前700年頃にはアッシリアがバビロニアを含めたメソポタミア全土とシリアを支配し一大帝国を築き上げます。

アッシリアの版図の変遷/Wikipediaより引用

アッシリアはその後もメソポタミア地域だけでなく、イスラエルやエジプトをも支配下に置き、オリエント世界を統一するまでの巨大帝国になります。

新バビロニアの栄華

16世紀のオランダ人画家マルティン・ファン・ヘームスケルクが描いたバビロンの空中庭園/Wikipediaより引用

しかし、そのアッシリアの興隆もときの王であるアッシュールバニパルが死去した後に、バビロニアで反乱が勃発。

この反乱を成功し、それを主導したナボポラッサルがバビロニアに新しい王朝を成立させます。

このバビロニアでできた王朝が新バビロニアと呼ばれ、アッシリアからの独立から10年にわたる戦いの中で、新バビロニアは紀元前612年頃にアッシリアに勝利し滅亡させます。

アッシリアに変わりメソポタミアの覇権を握った新バビロニアは、その後さらい勢力を拡大させていきます。

ナボポラッサルの後を継いだネブカドネザルはバベルの塔のモデルになったジッグラトや空中庭園を建設し、首都バビロンは栄華を極めることとなります。

バビロニアは最盛期の版図はアッシリアを超え、サウジアラビアの方面まで広がることとなります。

紀元前6世紀の新バビロニア帝国(赤)と近隣の州の近似国境/Wikipediaより引用

しかし、隆盛を誇った新バビロニアも終焉を迎えることになります。

紀元前539年頃、ペルシャのキュロス王によって、新バビロニアは征服されます。

その後のメソポタミア、そしてオリエントはペルシャ帝国の配下としての歴史を歩むことになっていきます。

 

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