オリエント メソポタミア都市国家

軍事基地から王都になったアッシリアの都 ニムルド ISILに破壊された遺跡

『旧約聖書』にカルフと記され、アッシリアを象徴する都市ニムルド。

アッシリア史上、その地は常に軍事拠点としての機能を担い続けました。

後に王都にも選ばれ、その完成式には近隣諸国から多くの使節が訪れたと言われます。

しかしその国力が低下したとき、市街は侵略を受け、破滅にまで追い込まれることに。

アッシリアに隷属を強いられてきた他国にで、圧政のシンボルであったニムルドは、古代世界屈指の軍事国家アッシリアと興亡をともにした都市でした。

軍事拠点から王都になるニルムド

ニムルド遺跡に残る人頭有翼獣ラマッスの像(2007年)/Wikipediaより引用

イラク北部の小さな街モールス郊外チグリス川東岸にニムルドと呼ばれる古代遺跡があります。

あまり知名度の高くない遺跡ですが、古代においてカルフと呼ばれていたこの地は、紀元前9世紀にはアッシリアの王都になります。

さらに重要な軍事拠点でもありました。

他国から多くの使節が朝貢に訪れ、国際都市としてにぎわいを見せていました。

ニムルドはアッシリアの王都に定められるはるか以前から人々が暮らしていました。

ニムルドは葦で作られた住居跡や石器などの先史時代の遺物も発見されています。

これはチグリス川の恵みを享受しながら豊かな暮らしを営んでいたことがうかがえます。

その集落に都市として成長し始めるのは、紀元前13世紀、アッシリアの王シャルマナセル1世が都市を建設した以降のことになります。

その頃、アッシリアの王都はアッシュールにありました。

しかし、アッシリアは北西部に睨みををきかせるには、アッシュールよりも北方に王都を置く必要がありました。

そこで俄然注目を浴びるようになったのがニムルドでした。

北西部を手中に収めたアッシリアは、つづいて北東方面への侵攻を開始します。

これによってアッシュールの王都としての機能性は薄れました。

いかに強大な軍事力を持つアッシリアでも、王の遠征中に王都を攻められれば国に分裂は免れません。

時のアッシリア王アッシュールナシルバル2世は紀元前879年、遂に王都を軍事都市ニムルド(カルフ)へ遷都します。

王都としてのニムルド

チグリス川に面したニムルド(カルフ)の範囲図/Wikipediaより引用

新都ニムルド(カルフ)は、南北に長く延びた長方形をしています。

往時には市街の四方全長8㎞にも及ぶ規模で、およそ高さ13m、幅30m以上の頑丈な城壁がそびえ、威容な姿でした。

街の北西部には、一辺50mの正方形の基壇を持つジグラットがそびえ、その近くにある神殿には、この街の守護神ニヌルタが祀られています。

ニヌルタ神は狩猟をつかさどる神として、狩猟を好む歴代のアッシリア王たちにより信奉されました。

そのニヌルタ神殿の少し南に、「北西神殿」と呼ばれるニムルド最大の宮殿があります。

北西神殿とはアッシュール・ナシルバル2世により建築されます。

その後、歴代の王により増改築が繰り返されたとされる宮殿の内部壁面は、さまざまなしくさびがたリーフや棋形文字で飾られており、そのモチーフは狩猟や戦争の場面、神話など多岐にわたっています。

市街の南東部には、一部が焼失した状態で発見されたことにちなんで「焼失神殿」と呼ばれる南北100メートルにも及ぶ建物があります。

主な建物の場所が発掘されたニムルドの図/Wikipediaより引用

中央部に中庭のある回廊のような構造になっています。

中庭の南側には「玉座の間」と呼ばれる一室があり、サルゴン2世宛ての粘土板書簡や王の名の入った円筒印章などが出土しています。

また、焼失神殿に隣接する「エジダ」と呼ばれていた建物は、ナブー神とその妻タシュメトゥム女神を祀る神殿、

図書館と思われるものが併設された宗教施設だったといわれます。

アッシリアの王都としての文化施設を十分備えながらも、カルフの本質はやはり軍事拠点であるという点にあります。

それを象徴するのが「シャルマナセル城塞」です。

ここはアッシュール・ナシルバル2世の子、シャルマナセル3世が紀元前846年に宮殿として建設したといわれているが、事実上、砦としての役割を果たしていました。

発掘調査ではそのことをやじり裏づけるように、鉄製の槍や雛などの武器のほか、銅の防具などが多数出土しました。

シャルマナセル3世は積極的に軍事遠征を行った王として知られており、在位期間35年のうち32回の戦争を経験したといわれます。

近年発見された「黒いオベリスク」と呼ばれる黒色の大理石で作られた石柱は、シャルマナセル3世の時代に作られたものとされ、イスラエルの王が彼の足に口づけする様子が描かれています。

当時のアッシリアの権勢がいかに大きかったかを物語っているといえるでしょう。

ニムルドに描かれたアッシリアの儀式

アッシリア王アシュール・ナシルパル2世のレリーフ:ニムルドのアシュール・ナシルパル2世の宮殿で見つかった。/Wikipediaより引用

カルフ は、アッシュール・ナシルバル2世が王都に定めた後、おそらく急ピッチでその整備が進められていきます。

北西部宮殿から出土した砂岩の板には、王都造営の完成を祝う儀式の様子が描かれています。

盛装した王や神々のレのほか、儀礼に内容や参加者などについての194行にも及ぶ模形文字による記録が残されています。

それによると、「世界中の幸多き人々よ。私はカルフの民ともども、あなた方に10日間、食事と酒とをふるまい、湯をつかわし、祝福を与えた。そして、安らぎと歓喜に満ちた家路に着かせた」とあり、そのにぎわいが伺えます。

また、参加者数についての具体的な数値も記されています。

そのうち「国内」の人々は、アッシリア全土の役人が1500人、もともと市街に暮らす人々が1万6000人、周辺地域から建設事業に召集された労働者が4万7000人。

このほか、遠くはアナトリアや地中海沿岸の都市フェニキアなど「国外」からの使節団5000人も王都落成の日を祝いに駆けつけました。

もちろん、数値には多分の誇張が含まれているであろうが、国際的な式典として広くアッシリアの存在をアピールし得たことは間違いないでしょう。

ニムルド遺跡発掘の第一人者のひとり、オックスフォード大学のマロワンは、この数値から当時のカルフの人口を試算しています。

マロワンは、王都陥落後も神殿の建設などがつづけられたことから、街には建設事業への従事者と、もともと街にいた人々が暮らしていたと仮定した上で、8万6000人を擁する大都市であったとされます。

しかし、具体的なカルフの人々の馨らしについてはまだ不明な点が多いのです。

市街の各所から象牙の装飾品やレリーフなどが発見されています。

それらは大商人や官僚など一部の特権階級の人々のものであると考えられ、一般の人々の生活水準に関してはさっぱりわかりません。

ニムルドの終焉と破壊

ニムルド遺跡の全景(2008年11月19日)/Wikipediaより引用

アッシュール・ナシルバル2世の遷都から約150年。

サルゴン2世により王都は、さらに北にあるドゥル・シャルキンヘと移され、その後、その息子センナケリブがニネヴェに遷都します。

しかし、ニムルドは王都としての役割を終えた後も、軍事的な主要都市でありつづけました。

アッシリア段後の王都となったニネヴェに並ぶ軍事都市であるカルフは、アッシリアの周辺諸国に対する圧力の象徴でした。

逆に隷属民からすれば憎悪の対象であったことでしょう。

紀元前7世紀末、イラン高原で大きな勢力になりつつあったメディア王国と、南メソポタミアでアッシリアから独立した新バビロニア王国が反アッシリア同盟を締結します。

紀元前615年連合軍としてアッシリアに攻め込んだ両軍は、東方からメディア軍が侵攻します。

新バビロニア軍が北上する形でアッシリアの各都市を破壊しながら王都ニネヴェへと迫っていきました。

紀元前612年、王都ニネヴェは陥落し、時をおなじくしてニムルドの市街も破壊されました。

焼失宮殿の損傷もこのときの火事が原因ではないかといわれています。

北西宮殿の井戸から発見された少年を襲う雌ライオンの象牙細工:宝石で象嵌を施した精巧な作品で、フェニキア人職人の手で作られたとされる/Wikipediaより引用

また、北西宮殿の片隅にある小さな井戸の中から発見されたおびただしい数の象牙の装飾品やレリーフなどがありました。

これらは連合軍の侵攻により街を逃げ出す際、カルフの人々が井戸の中に隠していったものだと考えられています。

その象牙の装飾品は、エジプトやシリアで見事な細工が施されたものと考えられています。

そして、皮肉にもアッシリアの交易範囲の広さを今に伝える遺物ともなりました。

軍事大国として近隣諸国から恐れられたアッシリアも遂に滅び、ほかの諸都市ともどもニムルドの市街は完全に破壊されてしまいます。

ISILによるニムルドの破壊

ニムルドに爆弾を仕掛けるISIL/youtubeから引用

19世紀に発掘調査が開始されるまで、かつてニムルドと呼ばれた街は、ひっそりと士に埋もれることになるのです。

19世紀の発掘調査で遺跡の全貌がわかるようになります。

そして、2003年にイラク戦争勃発するまでは、観光地となります。

しかし2015年にテロ組織「イラク・イスラム国」とレバント(ISIL)は、「非イスラム」であるニムルドの破壊する意向を表明します。

2015年3月にイラク政府はISILがブルドーザーや爆弾を使用して発掘された都市の遺跡を破壊しました。

2016年11月にはイラク軍はニムルドを奪還することになりますが、発掘された都市の約90%が完全に破壊されたしまいました。

ニムルドの遺跡はそれ以来、イラク軍によって守られ続けています。
 

古代文明大研究

歴史系ブロガーです。 小学生の頃からの古代文明が好きです。 古今東西の古代の歴史について調べています。 解き明かされていない謎について迫って行くことに面白みを感じています。(中々人に理解されないですよね~泣) 分かりやすく世界の古代史について情報発信をしていきます。 よろしくお願いします

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