オリエント メソポタミア都市国家

アッシリアの王都ニネヴェ、壮麗なる城塞都市の興亡の歴史

『旧約聖書』にも登場する古代都市ニネヴェは、残虐な戦法で周辺諸国を躁剛しオリエントを統一した軍事立国アッシリアの王都です。

血にまみれたアッシリア軍の象徴のように「恐怖の街」と呼ばれました。

しかし、この異名はニネヴェのほんの一面を示しているに過ぎません。

最強の軍隊を象徴する城塞都市であり、同時に豊かな文化都市でもあったニネヴェ。

古の都の真の姿を探ってみましょう。

アッシリア王国の最盛期の都ニネヴェ

ニネヴェ遺跡/Wikipediaより引用

ニネヴェは、古代メソポタミアに軍事立国として栄えたアッシリア王国の最盛期の都、そして最後の都です。

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ニネヴェは、現在のイラク北部、首都バグダッドから北400キロメートルの、モースル市郊外のチグリス河東岸にあります。

全長12キロメートルの城壁に取り囲まれたニネヴェの面穂は約7.5平方キロメートルほどであり、皇居の約5倍の規模です。

遺跡の中心を貫くようにチグリス河から 引き入れた運河コスル川が流れています。

その南北にはネピ・ユヌス、クユンジュクの2つの大きな丘陵地が広がっておいとくに北部のクユンジュクの丘は史跡の宝庫となっています。

ニネヴェの起源は古く、その丘陵地には紀元前7000年頃から人が住んでいたとされます。

紀元前3000年代前半の地層からは壷、高台付碗、緋色の彩文土器などが出土しています。

メソポタミア初期王朝時代に栄えた都市国家ないしは大集落のひとつがここにも確かに存在していたことをうかがわせます。

ニネヴェは紀元前2000年頃から女神イシュタルを祀る高名な神殿があり、都となる以前からアッシリアの主要都市のひとつとして栄えていました。

北部メソポタミアの王国ミタンニに占領されいた時期もあるが、紀元前14世紀にアシシリアが奪回しました。

その後も王都と定められる前から、王の居住地の多くはニネヴェに置かれ、アッシリアとともに盛衰を繰り返しながら発展していきます。

当時、悪逆の限りを尽くしたといわれるアッシリア軍を率いていた王たちの好んだ都市。

躁州され属国とされた国の人々がニネヴェにどのようなイメージを抱いたかは想像に難くないでしょう。

後に「恐怖の街」と呼ばれるこの街のイメージはすでにできあがっていたのかもしれません。

紀元前705年、センナケリブ王は即位すると同時に首都をニネヴェに移しました。

父王サルゴン2世が完成させたばかりの都ドゥル・シャルキンをあっさり見捨てての決断でした。

ここに王都ニネヴェの黄金時代が始まります。

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王都ニネヴェの様相

ニネヴェに所在したセナケリブ宮殿のレリーフ/Wikipediaより引用

センナケリブ王により王都と定められたニネヴェは、2重の城壁とその外側に掘られた深い堀で取り囲まれ、厳重に防御された城塞都市でした。

堅牢な石材で築かれた外側の城雛には一定の間隔で威圧感ある塔があり、その内側には外側の壁よりも背の高い、日干しレンガによる壁が築かれていました。

城壁の要所に配された15の巨大な門は、アーチ型で門道が深く、防御に最適の構造となっています。

門の両側を守る有翼の人頭雄牛像ラマッスは高さ3mから5m近い巨像であり、近隣の山岳じから運び込んだ一塊のアラバスターで作られていました。

「敵を恐れさせる壁」とセンナケブリ王が読んだこの壁は、防御効果もさることながらいかにもすごみのあるたたずまいであり、「恐怖の街」を演出するのにひと役買っていたと思われます。

クユンジュクの丘の麓には、手工業地区と居住地区を含む市街が、碁盤目状の街路をなすように秩序正し広がり、王都の繁栄を支え、享受していました。

丘の南西部に建設されたセンナケリブ宮は、付近で大量に産出する石材がふんだんに用いられた豪華な造りであり、「並ぶものなき王宮」と呼ばれます。

王宮の正面には青銅製の柱並び、人頭雄牛像ラマッスが置かれ、壁面は王の業績の記録でもあるレリーフが刻まれた石板で飾り立てられていました。

その内容は歴代王の戦績を誇示する過剰なまでの宣伝でした。

ニネヴェの地図/Wikipediaより引用

王宮は軍事施設である砦としての機能も完備した、城塞都市ニネヴェの中心でした。

ところで、代々のアッシリア王は植物収集を好み庭園を所有していたが、センナケリブ王も大の植物好きであり、また動物好きでもありました。

王は各国の珍しい木々を集めた植物園や、貢ぎ物として献上された異国の珍獣を集めた狩猟場を兼ねる動物園を造ったことでも知られています。

世界七不思議のひとつといわれる空中庭園はバビロンではなくニネヴェにあったという説もあります。

センナケリブ王はまた、王都ニネヴェの潅瀧事業にも積極的に取り組み、ニネヴェ中央に運河コスル川を引き大量の水が流入するようにダムを造ります。

水が乏しく土地がやせた砂漠地帯において、都市の繁栄は水源の確保にかかっていました。

ニネヴェへ導かれた水は農地の潅概にも用いられたが、王都内の水利や、庭園や植物園を潤し美観を維持するためにも重要でした。

大規模な建設工事や土木工事に必要な労働力は被征服民を奴隷として働かせることによって賄われていました。

王宮内のレリーフには、大勢奴隷を動員しての運搬や工事の様子も詳細に刻まれています。

こうした記録が残されたことで、この壮麗な都はむしろ「恐怖の街」という印象が先行してしまったといえるかもしれません。



アッシュール・バニパルの下で繁栄するニネヴェ

アッシュルバニパルと王妃のリバリ・シャラットは、ダイニング(中央右)を描いたレリーフ/Wikipediaより引用

王都ニネヴェの繁栄を築き上げたセンナケリプ王であったが、イシュタル神殿で礼拝中に暗殺されてしまいます。

王位を継いだのは王太子だったエサルハドンであったが、王が代わっても王都はその輝きを失うことはありませんでした。

そして、広大な領土を継承した次の王アッシュール・バニパルのもと、アッシリアは名実ともにメソポタミア最強の王国となります。

遠くはなれた異国の征服地や、国内の各地から、さまざまな特産物が貢ぎ物として献上され、王都ニネヴェはますます豊かになっていきました。

エジプトの金や象牙、レバノンの杉、アマヌス山脈の銀、イランのラピスラズリなど、これらの素材で彩られ、王宮や神殿はいっそう絢捌豪華になっていきます。

クユンジュクの丘の北部に建てられたアッシュール・バニパル宮はセンナケリブ宮を上回る規模と豪壮さを誇り、美術作品としても史料としても価値の高いレリーフが数多く発見されています。

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王宮の近くには、巨大な図書館が建設され、楔形文字が刻まれた粘土書板による公文書が体系的に保存されていました。

ここで発見された約2万点以上にのぼる書板は古代メソポタミアを知る貴重な史料となり、アッシリア研究の基礎となります。

図書館に隣接して書法術の神ナブーの神殿も建てられ、単なる軍事国家ではなく文化レベルも高かったアッシリアの一面をうかがい知ることができます。

こうして、センナケリブ、エサルハドン、アッシュール・バニパル、3人の王のもとで、王都ニネヴェは政治、軍事、経済の中心、そして図書館、植物園、動物園を備えた文化都市として発展を遂げました。

しかしその栄華にも終わりのときが近づいていきます。

王都繁栄の陰に、圧制にあえぐ被征服民たちの不満は暴発しつつありました。

紀元前625年、ナボポラッサルはバビロンで独立を宣言して新バビロニア王国を興します。

そして、紀元前615年、メディアのキャクサレス王と連合軍を結成して王都ニネヴェヘの侵攻を始めることになります。

王都ニネヴェ陥落とその後

ジョン・マーティン『ニネベの堕落』/ Wikipediaから引用

紀元前612年、メディアと新バビロニアの連合軍の総攻撃により、王宮や神殿、図書館などは跡形もなく破壊され、王都ニネヴェは陥落します。

ここに軍事立国アッシリアは事実上滅亡しました。

しかし、ニネヴェはそのまま消滅したわけではなかった。陥落後約1000年間、人々が居住し営みをつづける地方都市として存続していきます。

ヘレニズム時代、パルテイア時代、ローマ時代に小規模な街として存在したことが記録に残っています。

やがて街がその役割を終え砂に埋もれていった後も、ニネヴェの名はかつての栄光の都として語り継がれていきます。

ニネヴェの存在はヨーロッパの知識人たちの興味を惹いたが、その真相は長年謎のままであり、ようやく解明されたのは19世紀半ばのことでした。

古都ニネヴェの遺構を探して、1842年モースルのフランス領事であったポッタが試掘を開始し、1847年イギリスの考古学者レヤードによってはじめて発掘されます。

以後、英仏の発掘競争が激化し、相当な数のラマッスやレリーフなどの彫刻作品が、大英博物館やルーブル美術館へ研究のために持ち帰られました。

その後も100年以上にわたり各国による調査がつづけられてきましたが、ニネヴェの全貌はいまだ不明なままです。

イラクでは、1980年代以降、度重なる戦争のため、外国人は旅行者のみならず研究者も足を踏み入れ難い状態がつづき、

さらに、イラク戦争によって全土が退避勧告または渡航延期勧告の対象となっています。

古代におけるもっとも美しい都市のひとつといわれるニネヴェを再び訪れることができるのはいつの日のことになるでしょうか?

古代文明大研究

歴史系ブロガーです。 小学生の頃からの古代文明が好きです。 古今東西の古代の歴史について調べています。 解き明かされていない謎について迫って行くことに面白みを感じています。(中々人に理解されないですよね~泣) 分かりやすく世界の古代史について情報発信をしていきます。 よろしくお願いします

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