オリエント メソポタミア都市国家

シュメールの宗教都市、ニップール遺跡の発見と全貌

最高神エンリルを祀る宗教都ニップールは、メソポタミア南部、シュメールとアッカドの境に位置した都市国家です。

かつて「天と地の紐幣」として近隣世界から畏敬の念を集めたこの街を治めることは、すなわちメソポタミアの覇者であることを意味していました。

このためその支配者は目まぐるしく入れ替わりましたが、ニッブールの王権をも凌駕する権威は、5000年もの長きにわたり揺らぐことはありませんでした。

粘土板から発見されたニップール

ニップールの地図が刻まれた紀元前1500年頃の粘土板/Instagramから引用

19世紀末、考古学研究においてヨーロッパに先を越されていたアメリカは、西アジアでの最初の発掘調査地として、イラクのバグダッドから南東へ約160キロメートルにある、現代名ヌファルと呼ばれる遺丘を選びます。

名前が似ていることから、ヌファルはシュメールの都市国家であり、最高神エンリルを祀った聖都ニップールの故地である可能性がありました。

ペンシルバニア大学の調査隊による発掘が始まると、ヌファルからは神殿やジグラット、何万枚もの粘土板が相次いで発掘されました。

そして調査隊は遂にスファル=ニップールの物証を得ることになります。

それは縦21m、横18mほどの都市の地図が刻まれた粘土板でした。

紀元前1500年頃のものとされるこの粘土板には、運河や都市を囲む壁、神殿などが描かれており、地図の中心にはシュメール語で「エンリルの場所」すなわちニップールであると記されていました。

地図の刻まれた出土品自体前例がなく、調査隊は非常に驚いたようです。

しかも粘土板に刻まれた地図は正確で、実際の発掘の手がかりにもなったほどでした。

この粘土仮の発見によって、ニッブールはおよそ南北2キロメートル、東西1.5kmの範囲に広がる都市であったことが明らかとなります。

市域は中央に流れる運河によって2つに隔てられていました。

おそらくニップールの人々はこの運河から水を引き入れ、麦などの農作物を栽培していたのでしょう。

またニップールは都市全体が城壁に囲まれていました。

城壁にはいくつかの門があり、「不純な門」「高貴な門」といったユニークな名前も付されていたことから、粘土板は防衛のために刻まれたものと考えられます。

シュメールの聖都 ニップール

ニップールの地図/Wikipediaより引用

紀元前5000年頃には人が幕らし始めていたというニップールに都市国家が形成されたのは、紀元前3500年から紀元前3100年頃のウルク期のこと。

おなじ頃メソポタミア南部では、ウルク、エリドゥなどの都市が栄えました。

こうしたシュメール都市国家では、都市神を祀る神殿を中心として市街が築かれており、ニップールの場合はエンリルを祀っていました。

そしてこの風と大気をつかさどるエンリルが紀元前3000年頃に天神アンに代わってメソポタミアの最高神とされたことで、ニップールの権威は一気に高まっていきます。

ニップールにおける神の領域「エクル(山の家)」は都市の北側にありました。

神話によれば、エクルは天と地を結ぶ綱の役割を果たすとされており、神殿を中心とするその一帯は周壁で囲まれていました。

ちなみに紀元前2100年頃、ウル第3王朝のウル・ナンム王は神に捧げるためのジグラットを神殿付近に建造しています

このジグラットは「エドゥルアンキ(天と地の結び目の家)」と名づけられました。

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ニップールの位置するメソポタミア南部にはバビロニア、その南部にシュメール人、北部にアッカド人が暮らしていました。

彼らがが最高神としてエンリルを崇めるようになると、ニップールを制することは周辺一帯を統一支配する上での絶対条件でした。

そのためニップールはさまざまな時代の王に支配されることとなったようで、実際エクルに堆積した瓦礫からは、バビロン、カッシート、アッシリア、パルティアなど諸王国の王名が刻まれた碑文が発見されています。

しかしこうした国の支配者たちが皆ニップールに都を置いたかというと、必ずしもそういうわけではありません。

例えばウル第3王朝の首都は、ニップールではなくウルです。

だが最高神エンリルの聖都ニップールの権威は、政治的な中心地であるウルよりも高かったようです。

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シュメールでは「バル」という、各都市が月ごとに交替で大麦やパン、ビール、魚などの神への貢物や宗教儀式の費用を負担する風習がありました。

ニップールはこれを負わなかったばかりか、むしろ諸都市から貢物などを受け取る立場に置かれていました。

こうしてニップールには富とエンリルに巡礼する人々が集まり、街は栄華を極めていきます。

粘土板が物語るニップールの姿

アッカド王シャル・カリ・シャッリの名前があるニップールで発見された楔形文字文書/Wikipediaより引用

シュメールの都市国家には学校跡がよく見られるが、ニップールでも学校の遺構が発見されています。

当時のエリートである書記たちを育成するための学校では、模形文字の読み書きを中心とする講義が行われていました。

さらにニップールからは図書館も発掘されており、神話、叙事詩、賛歌や格言集などの記された約3万枚もの粘土板が出土しています。

また62の書名が記された目録が発見されているが、そのうち20が残存していました。

こうした目録がその後6つも発見されていることから、当時ニップールにはリス卜化が必要なほど多くの作品が存在しており人々が目録を利用して書物を読んでいたことがうかがえあます。

一方、文字の刻まれた粘土板の中には、今でいうところの契約書や証書にあたる文書の断片も数多く含まれています。

ニップールに限らず、シュメールは契約社会で、現在のように契約は文書で取り交わされ、押印の慣習もすでにありました。

こうした文書の中でも目につくのが、家宅売買に関する契約書です。

宅地の広さは1サル(約35平方m)から2サルまでのものが多いから、神殿の外側にあったとされる居住区にある人々の住居はどうやらとても狭かったようです。

このほか貧しい者が富める者から借財する際の文書や、雇用・交換・借地についての契約文書が発見されています。

「王の名のもとに誓う」という形で個人間で交わされたこれらの文書は、ニップールの人々の知的水準の高さを物語っているといえるでしょう。

多民族が混在したメソポタミア地方では、古くから交易などの際に法的手続きが重視されていました。

これが国家間レベルだけでなく民間レベルにまで浸透していたことを意味しているようです。

聖都ニップールの栄枯盛衰

ニップールの全景/Instagramから引用

ニップールに遣る遺構や遺物は、そこでの生活が比較的平和に包まれていたことを物語っています。

近隣諸国はニップールを巡って激しく争いますが、この街そのものはそうした政争とは無関係に、宗教・文化・学問の中心地としてエンリルの名のもとに繁栄を謳歌していきます。

しかし紀元前2000年頃、ニップールの権威は徐々に衰え始めることになります。

その後バビロン第1王朝の時代を迎えると、シュメールの文化はバビロンのアムル人に吸収されていき、最高神の座もエンリルからマルドゥクヘと移っていきました。

ただ、衰退を辿っていくニップールの行く末を予見したのか、街の人々はこの頃さかんに文学や詩を粘土板に刻んだようです。

というのも、図書館の遺描から出土している粘土板には、この時代に作られたものが数多く含まれています。

こうして栄光の時代は過去のものとなったが、それでもニップールはかつての宗教都市として諸王朝から一定の敬意を払われ、存続しつづけました。

紀元前1400年頃にはカッシート王朝下で修復が試みられ、紀元前3世紀半ばに成立したアルサケス朝パルテイア時代にも都市として機能していたようです。

結局ニップールには、その後紀元後8世紀頃まで人が暮らしていたと言われます。

古代メソポタミアにおいて驚くほど長寿な都市であったニップール。

そのエンリルの聖、都は、移り変わるメソポタミアの歴史を見守りつづけていきます。

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