オリエント メソポタミア都市国家

発掘したら殉死した痕跡が!ウルの王墓の世紀の大発見

見事な細工が施された黄金の兜

たくさんの貴石をちりばめた装身具など目を見張るばかりの副葬品

これらの豊富な発見され大きな話題となったウルの王墓。

しかし発見されたのは財宝ばかりではありませんでした

美しく着飾ったいくつもの遺骸は、何を物語るのでしょうか。

ウルの王墓はツタンカーメンと並ぶ大発見

発掘中のウルの王墓/Wikipediaから引用

ウルの王墓の発掘、それは鷲きと興奮の連続だったと言われます。

4500年も前の王墓から発見された、大変に豪華で質の高い副葬品の数々に、発掘を行った研究者や人夫たちは驚嘆の声を上げたようです。

しかし、それとおなじくらい人々を驚かせたのは、殉死者のものと見られるいくつもの遺骸です。

ある者は短剣を持ち、またある者は豪華な衣装を身に着けていました。

そして、それぞれが1カ所に固まったり、並ぶようにして倒れていたのです。

これは、前例のない大発見でした。

1924年~1932年にかけて行われたウルの遺跡発掘では、中心となって発掘と研究を行った人物は、イギリス人の考古学者、レオナード・ウーリーです。

ウーリーはほかにもこの地で、ジグラットの発掘や、洪水の痕跡を発見するなど、重要な成果をいくつも挙げています。

しかしやはり、王墓の発掘に伴うすばらしい副葬品の発見は格別で、注目の的となりました。

それは同時期の、エジプトのツタンカーメン王の墳墓発見と並び称され、世界中でセンセーショナルな話題を呼んだのです。

ウルの王墓のお宝の数々

ウル王墓出土のシケットのラム/Wikipediaより引用

ウルの墓群は、この遺跡の南東の端にあり、ウーリーはこの地で2000基近い墓を発掘しました。

その内16基が、王墓と呼ばれており、例外的に副葬品が豊富であり、しかしこれらのほとんどは墓泥棒によって荒らされてしまっていたようです。

1927年の冬にウーリーは盗掘に遭っていない墓を見つけます。

その発見は、偶然の幸運によるものでした。

墓郡を発掘していたウーリーの調査団は、地面から突き出した槍の先を発見します。

その槍の先は銅製で、まわりの土をどけると柄の上の部分に金製の筒がかぶせられていました。

これは下に何かあるなと感じたウーリーはそこを注意深く掘り進めます。

こうしばらくすると平らな坑に出て、そこには十分な空間があり、木棺とさまざまな副葬品が置かれているのが分かりました。

ここでは、先端を下に向けた槍が一列に並べられ、ほかにも、黄金を打ちつけた短剣、銅製の短刀のほか、いくつもの銅や銀の皿や壷が発見されたのです。

発掘されたように保存されたジュエリーを持つ女性の頭/Wikipediaより引用

そしてウーリーはいよいよ木棺の調査に取りかかります。

土を取り払った中から出て来たものは、遺骸は金の短剣を携えていました。

さらに、金の輪に取りつけたラピスラズリの砥石をぶら下げた銀製の帯を巻いいました。

また、棺の中には、何百というラピスラズリと真珠のほか、金のカップと受け皿、金のランプ、そして金の頭飾りと腕輪など、大量の豪華な副葬品が納められていたのです

そして中でも、その遺骸の頭部を覆っていた兜は格別でした。

それは金を内側から叩いて作られており、その表面にはちょうどカツラのように、髪が細かく彫り込まれた、見事な細工が施されていました。

ウーリーはこのウルの王墓での大発見を古代シュメール人がいかに高度な文明を持っていたかをうかがい知ることができるといったようです。

この言莱は、それらの副葬品がどれだけすばらしいものだったかが伝わってきます。




ウルの王墓の出土品からわかる交易ルート

スタンダード 「饗宴の場面」「平和の場面」/Wikipediaより引用

ウルの適跡は現在のイラク、バグダッドの南東300キロメートルの地点、テル・エル・ムカイヤル(瀝青の丘)と呼ばれる丘にあります。

ウルはメソポタミア文明のシュメール人の都市国家でした。

この地には紀元前5000年紀半ばから人が住み始め、紀元前3000年紀に都市としてもっとも繁栄いました。

現在はユーフラテス川から南に15Kmはなれていますが、当時は隣接しており、都市のまわりにはそのユーフラテス川から引いた外堀が張り巡らされてと言われます。

これは、外敵からの防御の役割を果たすのと同時に、交易路としても利用されました。

この地では交易がさかんで、川を経て遠くインドやエジプトにまで交易路を開拓していたことが分かっています。

交易に関する記述は、すでに発見された粘土板から見つかっています。

だがそれを裏づけたのは、王墓から発見された副葬品の数々でした。

装飾品に贄沢に使われていた金や貴石はこの地では採掘できないものです。

中でもとくに驚くべきはラピスラズリです。

これは産地が非常に限られており、もっとも古い鉱脈はアフガニスタンにありました。

ウルのものもアフガニスタンから産出されたと考えられるが、ウルとアフガニスタンは、何と3000キロメートルもはなれています。

シュメール人は紀元前3500年頃に、シルクロードにも劣らない交易路を完成させていたのです。

これらの貿易の主軸となったのは、肥沃な大地から収穫された麦でした。

シュメール人たちは自分たちが食べる以上の麦を生産し、それをほかの地域と交換することで、この地にない産物を手に入れていきました。

それは、貴金属や貴石だけではなく、石材、木材、染料などありとあらゆるものが交易によってもたらされたとされます。

天然資源の乏しいメソポタミアでは、交易の発達は必然だったともいえるでしょう。

ウルの王墓に備われた殉死の遺体

プアビ王妃の墓に埋葬されていた殉死者の隊列の再現図/Wikipediaより引用

1927年~1928年の発掘で、ウーリーたちはさらに珍しい発見をするも掘り出した墓の中から、互いに寄りそうように並ぶ5人の遺骸が出てきます。

その遺骸は銅の短剣を携え、近くには土器が置かれていたものでした。

ウーリーはいままでこのような埋葬の仕方は見たことが無かったようです。

さらに掘り進むと、今度は女性の遺骸が5人ずつ2列に並んでおり、その遺骸は頭部に金やラピスラズリで作られた飾りを着け、真珠でできた首飾りをしていました。

副葬品らしいものは見あたらなかったのですか、遺骸の列の端に朽ちたハープがあったようです。

それは所々が金で装飾され、胴体部にはモザイクの飾りがつけられ、底部には金とラピスラズリで作られた雄牛の頭が残っていました。

そしてそのハープには、1体の遺骸がかぶさっており、これはおそらく奏者であろうと考えられ、ハープを演奏しながら死んだのではないかと考えられます。

下につづく墓を掘り進めると、またも骨が見つかり、人間のものではない様子

そしてその少し奥からは、美しく飾られた木製のソリが見つかり、骨はこのソリを引いて来た動物のものだったようです。

その近くには御者とおぼしき遺骸もあり、周りからは、金、銀、銅、ラピスラズリや大理石で作られた副葬品が多数見つかります。

さらに掘り進めるごとに、まとまった数の遺骸も見つかります。

銅の兜と銅の槍を持った兵士、ラピスラズリや金銀で作られた装身具を身に着けた女性、また、2台の木製の四輪車とそれを引く3頭の牛の遺骸もありました。

ウルの王墓出土プアビの墓で見つかったヘッドギアネックレス/Wikipediaより引用

そしてその奥の墓室からはプアビという王妃の遺骸と、見事な金細工の髪飾り、そして、賛沢な芸術品などの副葬品が多数発見されます。

こうしたウルの王墓から装飾品をまとった状態で殉死された遺骸も埋葬されたのです。

また、王族の埋葬は数日間の儀式で構成されていたと考えられています。

一部の遺体には、儀式を通して遺体を存続させるための暖房または焚火のあとがあったようです。

さらに、いくつかの頭蓋骨では水銀が発見されており、これも遺体の保存のために利用されていたようです

また、王墓には警備員、付き添い人、音楽家、そして去勢牛やロバなどの動物などが埋葬されていました。

ウーリーは当初、殉死した付添人は人身御供であると考え、王の力を示すために殺されたと考えたようです。

しかし、各遺体の近くには、毒を飲むことができる小さなカップを持って発見されました。

そのため、ウーリーはが自発的に服毒し死んで君主に仕え続けるため、配下の者も死んだと考えました。

いくつかの研究では、頭蓋骨の一部が鈍的外傷を受けており、自発的に頭を死に至らしめるのではなく、強制的に殺されたことを示しています。

ウルの王墓の発見から、ウルの埋葬文化には殉死が存在し、王が死ぬと臣下も伴って死ぬという文化が存在したことがわかりました。

数々の黄金などで施された豪華な副葬品から、ウルが先進的な文明をもっていたということが分かりました。

さらに、世界で早い段階で殉死という制度をとった特殊な埋葬文化が存在したということがウルの王墓の発見で、さらにシュメール文明の内容を深く知るきっかけともなっていきます。

 

 

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