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古代メソポタミアの革命家 サルゴン2世の真実

人類最古の文明が生まれた古代メソポタミアでしたが、統一国家が建設されるのはエジプトよりも遅く、小さな都市国家が覇権を競い合う時代が長くつづいて来ました。

分裂の時代にピリオドを打ち、メソポタミアにはじめて統一王国を誕生させたのは、アッカド人の王サルゴンであると言われます。

古代メソポタミア史に大きな転換期をもたらした偉大な王、サルゴン王の波乱と栄光に満ちた生涯を辿ってみましょう。

語り継がれるサルゴン伝説

サルゴン2世(右)と高位の人物のレリーフ/Wikipediaより引用

いくつもの都市国家が争いを続けていたメソポタミア諸国を打ち破り、初めて統一国家を誕生させた王サルゴン。

その偉業から大王と崇められるサルゴン王は、楔形文字で刻まれた「シュメール王名表」によれば、紀元前24世紀後半~紀元前23世紀にかけての55年余りを統治したアッガド王朝の始祖になります。

サルゴン王の業績については、多くの記録が遺されています。

しかし、それらは史実というようりかは伝説の要素が強いものです。

サルゴン王に関して、もっとも謎が深いのはサルゴンの出自です。

サルゴンはユーフラテス河岸のアズピラヌという街に生まれました。

父が誰であったのかは分かりませんが、母は子供を産むことを禁じられていた高位の女神官でした。

人知れず男の子を出産した母は、籠に入れ瀝青で閉じてユーフラテス川に流し、その運命を河の神による裁判に委ねます。

結果は吉と出て男の子は命を救われました。

農民の悪鬼の息子として成長し庭師となり、女神イシュタルの愛を受け運命が好転します。

サルゴンは立身出世を重ね、キシュ王ウルザババに仕えるようになります。

そして、遂にはキシュの王位を奪ってしまうことになります。

捨て子に出される話は英雄伝説の最初を飾るエピソードの典型であり、モーセやキュロス大王の伝説も貴種流離譚から始まります。

しかし、実はそれらの伝説お原型はサルゴン王の物語であると言われています。

数奇な運命から捨て子に出されたサルゴンは、自らの能力のみで王位にのし上がります。

おそらく出自の秘密は高貴な生まれではないサルゴンが、神に選ばれた王であると印象づけるのに役立ったのでしょう。

当時の女神官は神殿娼婦を兼ねていたが避妊法も堕胎法も徹底していたので子を残す可能性はきわめて低いものです。

それなのにこの世に誕生し、捨てられても河の神によって生かされ、女神イシュタルに愛されたとあれば、まさに神の申し子でした。

そして、サルゴン王は神のごとく基鮮やかに自らの巡命を切り開き、輝かしい業績を挙げていったのです。

戦い明け暮れるサルゴン

サルゴン2世が戦車に乗り、都市を攻撃するレリーフ/Wikipediaから引用

数々の都市国家に分裂し争いが絶えなかつたメソポタミアを統一国家にまとめあげることは、王たちの夢でもありました。

しかし、各都市を守る市神への畏敬の念が、彼らに侵略戦争への道を思いとどまらせていました。

ラガシュの王ウルイニムギナもそのひとりで、慈悲深いこの王は世界初とされる法律書を作り、公明正大な法治国家を実現した人物です。

ウルイニムギナ王の名はメソポタミア中にとどろき、国外にも彼こそが王と慕う者も多かったのですが、実際にこの地を統くるほどの力は持ちませんでした。

というのも、ウンマの王ルガルザケシが不遜にも武力による諸国制覇に乗り出したとき、ラガシュは真っ先に討ち滅ぼされてしまいます。

ルガルザゲシ王は侵略をつづけシュメール人国家を掌握したかのように見えましたが、過酷な圧政を行った彼が王者と崇められることはなく、力だけによる見せかけの統一は長くはつづ来ませんでした。

ルガルザゲシヘの不満と憎悪が高まる中立ち上がったのが、捨て子から身を起こして王にまで成り上がったキシュの王サルゴンです。

サルゴン軍は精惇な遊牧民族アッカド人を中心に組織された5400人もの大iliであり、農耕民族シュメール人によるルガルザゲシ軍はひとたまりもなく敗れ去っていきました。

サルゴン軍はルガルザゲシに圧迫されていた諸国を解放し、喝采を浴びます。

一方、ルガルザケシはニシプールへ送られると、木にかけられて引き回された上処刑されました。

そしてサルゴン王は、その場で自分こそが神に認められた正統な王者であることを印象づけたのです。

こうして紀元前24世紀後半、サルゴン王は新しく王都アガデを築き、メソポタミア初の統一国家アッカド王国の祖王となります。

そして、それだけで満足することなく、破竹の勢いで領土を拡大していきます。

サルゴン軍による占領地は、北はシュバリ、東はエラム、南はペルシア湾頭、西はキプロス島にまで及び、サルゴンは自らを「四界の王」と称します。

変革者たるサルゴン王

イラン スーサから出土したサルゴン王の戦勝碑/Instagramから引用

サルゴン王の時代において、成り上がり者が王となるのは珍しいことではなく、

ラガシュ王ウルイニムギナも、ウンマ王ルガルザケシも、サルゴンが仕えたキシュ王ウルザババさんだつも皆王位裳奪者でした。

ではなぜサルゴン王だけが真の統一者となり得たのだろうか?その鍵はサルゴンの政治的能力にあったといえます。

彼は占領した諸都市には総督を配して統治したが、厳格に締めつけることはなかったようです。

そして、シュメール人の文化や宗教を禁ずることなく容認し、自分の政権がシュメールの神々によっても承認されたものであることを示したのです。

シュメールの文化を許容することによって、それまで融合することはなかったシュメール人とアッカド人の文化が融合し、新しい様相を持つ文化が花開きました。

彫刻などの美術作品は、それまでの農耕民族的な素朴な様式に、遊牧民族的な性格が加わり洗練されていきます。

サルゴン王の肖像といわれる彫像が良い例であり、糟桿さの中に人間的な高貴さがあふれ出ているようなリアルな表現は、これまでにないものでした。

また日常語はシュメール語からアッカド語に取って代わり、シュメール人が発明した模形文字がアッカド語の表記に使われるようになりました。

この時代、メソポタミア社会で革命的に交易がさかんになったことも、サルゴン王の功績でした。

占領地には、「銀の山」タウルス山脈のあるアナトリア南東部や、「レバノン杉の森」のあるアマヌスをはじめとする貴重な資源の産地や、ペルシア湾両岸などの交易の要地が多いのです。

サルゴン王はペルシア湾と王都アガデとを結ぶ大運河網を築き、海路、陸路にも通間ルートを発達させていきます。

被征服民たちにも自由を認めたため、征服される前より豊かになった者も多く、サルゴン王の名声はますます高まりました。

アガデは経済の中心地として繁栄し、各地から集結した豪華な財宝と富であふれる絢燗たる都となりました。

サルゴン王はメソポタミアに新しい風を吹き込んだ人物でした。

サルゴンの王位を継ぐ者たち。

息子のセンナケリブ(右)と思われる高官と向き合うサルゴン2世(左)/Wikipediaより引用

サルゴン王と4代目の王ナラムシン。

この2人は「建国者サルゴン」と「破壊者ナラムシン」という形で対比されます。

人気の差によるものか、実際にアッカド王国に最大の領土をもたらしたのはナラムシンでしたが、サルゴン王ばかりが美化されて語り継がれています。

アッカド王国は5代目シャル・カリ・シャラ王の代に山岳民族グティに滅ぼされ、1世紀以上にわたる歴史の幕を閉じます。

王都アガデは跡形もなく破壊されて砂塵に帰してしまったが、サルゴン王の人気は衰えることがありませんでした。

メソポタミアを再統一したのはシュメール人によるウル第3王朝でしたが、支配形態などのアッカド王国の遺産を継いで行かれます。

ウル第3王朝の王たちの中にはアッカド語の名を名乗る者もおり、メソポタミアの統一を目指す者は皆、サルゴン王のようになることを望み「サルゴン」を名乗る王もあらわれたと言われます。

サルゴン王の死から約1600年後、新アッシリア王国の最盛期を築き上げたサルゴン2世もその一人でした。

サルゴン2世も偉大な王にあやかりたいとの願望から「サルゴン2世」を名乗ったでしょうが、この名はサルゴン2世に強運を与えたことになります。

サルゴン2世はイスラエル王国やバビロニア王国を侵略し、アッカド王国を超える広大な統一王国を実現したのです。

今から4000年以上も前の人物であるサルゴン王の伝説に触れることがあできるのは、アッシリアの王立図書館に、サルゴン伝説を刻んだ粘土板が数多く保管されていたためです。

図書館が火災に遭った折も、焼かれたことによって粘土板の保存状態はかえって良くなったと言われます。

サルゴン王の偉大さは死によって忘れ去られることはなく、強靭な存在感をもって今後も歴史にその名を語り継がれるでしょう。

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