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メソポタミアの最古の都市文明シュメールの歴史

チグリス河とユーフラテス河に挟まれたメソポタミア地域

この地には鉱物資源がほとんどない代わりに2つの河によってもたらされた肥沃な土地がありました。

人々はこの地で潅慨を行うと、そこに麦を植え、驚異的な量の収穫を手に入れます。

こうして生まれた大量の余剰を背景に、やがて文字が作り出されそこに人類最古の都市文明が誕生したのです。

メソポタミア地域に生まれたシュメール文化

ウバイド文化後期の陶器瓶/Wikipediaから引用

メソポタミア南部、シュメール地域にはじめて文化の灯がともされたのは、紀元前6千年紀後半のことです。

ウバイド文化と呼ばれたこの文化では灌測農業が行われ、石器のほかに土器や銅器なども用いられました。

それ以前、メソポタミア北部には紀直前6千年紀前半からハッスーナ文化が芽生えており、その後サマラ文化、ハラフ文化へと移り変わっていきます。

しかし、やがてこのウバイド文化に飲み込まれていきます。

このウバイド文化を受け継いで、紀元前3500年頃にはウルク文化が形成されます。

ウルク文化においてなされたもっとも偉大な出来事は、文字の発明だといえるでしょう。

ウルク遺跡からは、紀元前3100年頃のものとされる、世界最古の絵文字を刻んだ粘版が出土しています。

また文字の誕生と前後して、このウルクを筆頭に、村落は相次いで都市化の様相を呈するようになります。

シュメール文明の幕開け

シュメール人が築き上げたウルのジッグラッド/Wikipediaより引用

やがて都市には王権が芽生え、そこには巨大な神殿が築かれていきました。

メソポタミア最南部に栄えたこの人類最古の都市文明は、シュメール文明と呼ばれています。

その中でも紀元前2900年頃から始まる初期王朝時代は、力を持った都市国家が互いに戦い合う、群雄削拠の状態でした。

そのため都市のまわりには城壁が築かれ人々はその中に居住しています。

「シュメール王名表」によれば、メソポタミアの地を巨大な洪水が襲ったとされます。

その後に最初に覇権を手に入れたのはメソポタミア北部のキシュであり、その後覇権はウルク、そしてウルヘと移っていったとされています。

紀元前2600年頃になると、王名表以外にも王による碑文などが遺されるようになり、メソポタミアの歴史は比較的はっきりとわかるようにもなります。

乱世の時代に突入するメソポタミア

シュメールの主要都市の地図/Wikipediaより引用

紀元前2500年頃にはメソポタミア南部の都市国家ラガシュが力を持つようになります。

そして、隣国のウンマと国境を巡って激しい戦争を繰り広げるようになりました。

紀元前24世紀、ウンマの王ルガルザゲシはラガシュとの戦いに勝利すると、さらにウルクやウル、ラルサといった都市同家の征服にも成功します。

しかしその後、ルガルザケシは北方に興った都市アガデの王、サルゴンによって倒され、以後都市同家はサルゴンが打ち立てたアッカド王朝によって支配されることになります。

南メソポタミア地域を統一したアッカドであったが、5代目の王シャル・カリ・シャラの時代には異民族の襲撃を受け弱体化してしまいます。

その後もアッカド王朝はつづきますが、王朝の権威は失墜し「シュメール王名表」に「誰が王であったのか。誰が王でなかったのか。」と記されるなど、諸都市国家の台頭する乱世の時代となりました。

シュメール文化から生まれた法律

世界最古のウルナンム法典/Wikipediaより引用

そんな南メソポタミアを再び統一したのが、ウル第3王朝を打ち立てたウルナンムです。

ウル第3王朝は世界最古の法典である「ウルナンム法典」を発布したことでも知られています。

ウル第3王朝は100年ほどで、東方から侵入してきたエラム人によって滅ぼされ、以降メソポタミアは峨乱の世へと逆戻りします。

その後イシンとラルサという2つの強国が争ったイシン・ラルサ時代を経て、南メソポタミア全土が再び統一されるには、紀元前1790年頃、バビロニアのハンムラビ王の登場を待つことになります。

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