オリエント メソポタミア都市国家

ウルナンム王と2代目シュルギ 親子2代で築き上げたシュメールの栄華

世界最古の文明を築いた栄光の民、シュメール人。

ウル第3王朝は、そんな彼ら力漣てた最初にして最後の統一王朝でした

その創始者ウルナンム王と2代目シュルギ王の治世は、王朝の隆盛期にして、シュメール文明がもっとも光輝に満ちていた時代とされます。

2人の傑出した玉の生涯を追いながら、シュメ-ルの輝ける黄金時代を垣間見てみましょう。

将軍ウルナンムのクーデター

ウルナンムの印章/Wikipediaより引用

チグリスとユーフラテスの両大河が恵みを運ぶメソポタミアの地に栄えた世界最古級の文明において、最初の韮役を演じたのば農耕民シュメール人でした。

彼らほ人類史土最初期に文字を使用し、文化的な都市国家を築きます。

この都市国家同士で競い合うこと:で高度な動ユメール文明が育まれてきましたが、この地にはじめて統一王国を築いたのは、彼らでばなくサルゴン王率いるアッカド人です。

シュメール人の文化を尊重したアッカド王朝が山岳民グティ人の侵攻を受け衰退すると、シュメールには彼らの圧政と無秩序にあえぐ苦難の時代が訪れました。

この頃の有名なシュメール人王にラガシュに最盛期をもたらしたグデア王がいます

しかし、それはむしろ例外であったおよそ1世紀の胤シュメ-ル諸都市の多くが異民族支配のもとに置かれましたが、やがてグテイ人を破ってどの混乱に終止符を打つ王が現れたました。

ウルクの王ウトゥヘガルという人物です。

だが彼も在位わずか7年にして王位を追われることとになります。

ウル総督に任命されていた将軍ウルナンムによって王位を簒奪されたのです。

ウルナンムはウトゥへガルの息子とともに弟とも言われますが、いずれにせよ正統な王位継承者ではなかったようです。

とはいえ、彼はけっして無能ではありませんでした。

むしろ彼によって創始されたシュメール人初の統一王朝となるウル第3王朝において、シュメール文明は本格的に復興されます。

そして「シュメールのルネッサンス」とも呼ばれる希望と華やぎに満ちた時代が到来します。

公明正大なウルナンム

 

ウル・ナンムの名が刻まれたレンガ/Wikipediaより引用

ウルナンムは「シュメール及びアッカドの王」と名乗り、国家のため、民のため、神のために精力的に公務に励みます。

中でも熱心に取り組んだのが建設事業です。

シュメール人は、人は神の労働を代行するために創られた存在と考え、王には都市神を祀る神殿を建てるという務めがあると考えていたためでした。

こうした思想を反映するかのように、王自ら工具を背に担いで労働する姿が刻まれた石碑も遣っています。

統一国家であるウル第3王朝においては、首都ウルに限らず、ウルク、ニップール、ラルサなど諸都市の神殿の建設事業も王の責務でした。

このためウルナンムは、ウルのジグラットだけでなく各地の神殿を再建していきます。

それまでは日干しレンガが使われていたが、崩れやすかったために、耐久性の高い焼成レンガを導入したと言われます。。

アッカド王朝の滅亡以来荒廃していた神殿を甦らせることで、諸都市の市民にウルナンムの王としての誠実さを示すという狙いもあったのかもしれません。

このほか、王は運河開削など大規模な建設土木プロジェクトを推し進めていきました。

王はまた、秩序を整え、治安を改善するためにさまざまな社会改革を行います。

最古の法典「ウルナンム法典」の制定もその一環でした。

ウルムンナム法典/Wikipediaより引用

この法典には「私、ウルナンムは孤児を富める者に引き渡さない。未亡人を富める者に引き渡さない」

といった条文があり、社会的弱者の保護を意識した先進的な法典と評価されることもります。

また、王の業績をたたえる「王讃歌」というものがウル第3王朝以降作られるようになりました。

「ウルナンム王讃歌」において王は「正義の牧人」を称し、自らの公明正大さを自賛しています。

しかし、彼の事績からはそれがけっして誇張ではなかったことがうかがえます。

紀元前2094年頃、王は宿敵グテイ人との戦闘の中で戦死したと伝えられます。

その20年ほどの治世において、八面六臂の活躍を見せたウルナンムでしたが、彼は大きな財産を残していました。

それが幼い頃から英才教育を受け、有能な後継者に育っていた息子シュルギです。

文武両道の王「シュルギ」

ウルムンナムの息子シュルギの印章/Wikipediaより引用

シュルギとは、シュメール語で「高貴な若者」を意味するのだが、王はその名に恥じぬ知性と教養を身につけていました。

識字率のきわめて低かった古代メソポタミアにおいては、文字の読み書きができない王も少なくなかったのです

しかし、シュルギはウル第3王朝においてただひとりこの能力を備えていたのです。

王は自ら「シュルギ王讃歌」を書き残しているが、そのひとつに学校生活に触れたものがあります。

王はその中で幼少の頃から書記学校に通い、シュメール語、アッカド語をはじめ5つの言語を習得し、算数もできたと誇らしげに語っています。

実際シュルギは父王にも勝る有能な王であったから、うぬぼれというよりは自負といえるでしょう。

聡明なシュルギ王は文化活動に理解を示し、ウルやニップールに研究施設を設立して学術の振興を図り、美術品には大金を惜しみなく投じました。

こうしてシュメール文明は大輪の花を咲かせることとなるが、シュルギは単なるインテリには終わらず、政治・軍事の分野においても目覚ましい実績を残しています。

まず父王が進めていた建設土木プロジェクトを引き継ぎ、各地に道路や駅停を整備し、公園を設置。

そして自ら文字を理解できる王は、行政改革にも精力的に取り組み、官僚組織を整え、徹底した文書行政体制を敷きました。

実際、シュルギの治世には実に4万枚を超える膨大な量の行財政文書が遺されています。

シュルギ王讃歌/Wikipediaより引用

王はさらに模形文字の表記方式や、度量衡、暦を統一し、これを踏まえて財政改革を行います。

定期的な検地に基づく税収は王朝の経済基盤を盤石なものとしました。

内政を安定させる一方、シュルギは強力な常備軍を編成して遠征を行い、西部のアムル人や東部のエラム人とも戦火を交え、成果を残しています。

その匡I土は最大でアッカド王朝の最盛期に迫るほどにまで拡大しました。

このように着実な功績を挙げ、国家を繁栄に導いたシュルギ王は民衆の絶大なる信頼を集め、中央集権体制は強化されていきます。

揺るぎない自信を持った王は自らを神格化して「四界の王」を称し、各地にシュルギ神殿を建てさせるようになります。

「シュルギ王讃歌」によれば、神に等しい存在となったシュルギ王は女神イナンナと聖婚儀礼を行ったらしいです。

これはシュメール古来の風習で、儀式的な結婚ではあったが、実際に王と女神に扮した高位の女性神官とが寝所をともにしたとも言われます。

シュルギ王の治世は48年に及び、ウル第3王朝は絶頂期を迎えます。

そしてこの頃が、シュメール文明にとってももっとも華やかな時代でした。

ウルムンナム、シュギルの以降のウル第3王朝

ウルのジッグラッド/Wikipediaより引用

シュメール人は古くから協調してきたアッカド人を除き、周辺の異民族を蔑視していたが、同時に彼らの侵入に絶えず悩まされもしていた。

シュルギ王の治世後半にはシュメール版「万里の長城」とでもいうべきものが築造されたが、異民族対策の決定打にはならりませんでした。

シュルギ王以降、ウル第3王朝の政情は急速に不安定となっていきます。

シュルギ王につづく第3代の王アマルシンは無能な王だったのか、王讃歌が残されていません。

だが一説にはこれは、第4代の王シュシンによって廃棄されたためであるともいわれています。

王族将軍だったシュシンは正当な王位継承者ではなく、王位を裳奪して即位していたからです。

その息子イビシンが第5代の王となりますが、アムル系マリ人の将軍イシュビエラに反旗をひるがえされ、王国は分裂します。

内政が混乱する中、今度は紀元前2004年頃、エラム人が首都ウルを襲撃、王が連れ去られるという事件が起こりました。

王は三度とウルに戻らず、約100年間つづいたウル第3王朝はあっけなく滅亡してしまいます。

そしてそれはシュメール文明の終焉をも意味していました。

以後、シュメール人が文明の主役に返り咲くことはなく、彼らは歴史の舞台から姿を消しました。

しかし、ウルナンムとシュギルの父子のもと黄金時代を経験したシュメール文明は、メソポタミアの新たな支配者たちの手本となります。

後に大帝国を築くアッシリアやバビロニアにも大きな影響を与えることとなるウル第3王朝の文化遺産は今も不滅の輝きを放っています。

しかし。まだまだ研究し尽くしているとは言えません。

今後のは発見によって、さらにシュメール文化の深奥が詳しくなって行くかもしれ

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