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今から5000年以上も昔、ユーフラテス河の東河畔に、ウルクという都市が興ります。
ウルクは、メソポタミア南部の文明都市の中でも当時随一の大都会であり、人類最古の文明人、シュメール人の英知の結晶でもありました。
大規模な神殿の造営、交易による経済の著しい発展、
そして人類初の文字の発明などウルクを舞台に花開いた文明は、目を見張るばかりの驚きを与えてくれます。
その街の実態は、19世紀以降少しずつ解き明かされ始めたばかりです。
今回はそんな文明都市であったウルクの全貌について迫っていきます。
シュメール文化を代表するウルク
人類最古の都市文明は、2つの大河、チグリス河とユーフラテス河の流域で発祥しました。
メソポタミアの南北を流れるこの2つの河の性質は大きく異なります。
北部を流れるチグリス河は古代から暴れ河として知られ、一方、南部のユーフラテス河は洪水は多いが穏やかで、肥沃な泥地は灌漑農耕に適していました。
ユーフラテス河の河口に集落ができ始めたのは、紀元前6千年紀後半のこととされています。
この頃芽生えたのが、メソポタミア文明の揺籃期、「ウバイド期」です。
小麦は品種改良され、余剰穀物が得られるまでになり、ろくろによる土器の生産技術、鋤などの農耕具や冶金術が発達しました。
このウバイド文化の担い手が、ユーフラテス河南部の民族とされるシュメール人だったかどうかは判明しがたいようです。
しかし、紀元前3500年頃になると周辺部族の中でもシュメール人は抜きん出た存在となり、発展的な都市文化を確立していきます。
その中心的都市ウルクにちなみ、ウバイド期につづく期間を「ウルク期」といいます。
ウルク期と呼ばれるのは紀元前3500年頃から紀元前3100年頃にかけてですが、その中でウルクは初期シュメール文化を代表する都市として発展していきました。
市街の中心に巨大な神殿群が建造され、交易経済も隆盛し、円筒印章、つまり印鑑のようなものも用いられ始めたと言われます。
宗教美術や工芸品、政治や教育制度といったシュメール文明を特徴づけるものの祖形は、このウルク期に生み出されたといっても過言ではないでしょう。
ウルクは、『旧約聖書』に「エレク」の名で登場し、また、現在は「ワルカ」という遺跡名で呼ばれています。
これは、若干の音の差はあるものの、メソポタミ文明の時代から現代に至るまで、都市名が踏襲されてきた数少ない例であるといわれます。
ウルクの内部
メソポタミア平原はその中央に位置する現代のバグダッドを境に、北側がアッシリア、南側はバビロニアと呼ばれていました。
さらにバビロニア北部・一帯のアッカド、河口に近い南部のシュメールに分かれています。
シュメールの中心都市ウルクは、その時期によって多少市域の面積が変遷します。
もっとも規模が拡大したのは紀元前2000年代の前半で、その広さはおよそ600ヘクタール、8万人の人口を抱えていたと推定されています。
人々の生活を守るために、第1王朝のギルガメシュ王がウルク市街の周囲に城壁を築いたと伝えられており、現在の遺跡にも10キロメートルほどの土塀が造っています。
ギルガメシュ王の冒険劇を描いた『ギルガメシュ叙事詩』には、ウルクは都市の3分の1が神殿、3分の1が居住地、そして残りの3分の1が庭園やナツメヤシの果樹園であったと記されています。
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神殿域は、天候神アンの神殿が中核をなすクラバ地区と、愛と戦争の女神イナンナの聖域であるエアンナ地区の2つの区域に分かれています。
天候神アンはウルクの都市神で、イナンナはアン神の娘とも妻とも聖娼とも位置づけられています。
「白神殿」とも呼ばれるアンの神殿は、壁が漆喰で塗り固められていたと言われます。
高さ13メートルの基壇の上に築かれ、供物台と祭壇を設けたその構造は、メソポタミア通史における神殿の祖形とされています。
また、エアンナ地区では祭儀用施設や公共建造物が時代ごとに造り継がれ、シュメールの建築と美術様式の発達を具体的に目にすることができます。
例えば、イナンナ神殿の地下にはウバイド期に遡る、長さ76メートル、幅30メートルほどの石灰岩の遺構が遣っています。
かと思えば、神殿の階段通路に並ぶ太さ2.7メートルの円柱や神殿の壁は、頭部を彩色した長さ10センチメートルほどの焼成土の釘を漆喰に打ち込むと言われます。
ウルク期独特の装飾技術を用いた幾何学的なモザイク模様で彩られているというような具合です。
ウルクから現存最古の文字が出土?
ウルクは、メソポタミア文明そのものの礎となる文化が育った都市でした。
そして、同時に人類全体にかかわる貴重な文化遺産が発見された地でもあります。
それは現代人の目からすれば、ほとんど落書きにしか見えないような絵文字を刻んだ粘土板です。
なぜその粘土板がそれほどまでの価値を持つかというと、それが現在発見されている現存最古の文字資料だからです。
メソポタミア文明の文字といえば楔形文字がよく知られていますが、紀元前3100年頃のものと目されるこの文字は「ウルク古拙文字」と呼ばれています。
1200種ほどの文字体系から成り、職業や容器の名称、地名などが記録されていると言われています。
ところで、ウルクに先立つ文字を持った文明があったかどうかということについては、学会でも議論が紛糾しているようです。
そのため、今のところウルク古拙文字がウルクで発明されたかどうか不明であり、それが人類初の文字であるとも言い切れません。
しかし、少なくとも最古級の文字であることは間違いないといえるでしょう、
文字の使用が定着したウルクにおいて、生活レベルが著しく向上していたであろうことを裏付けるのが「ウルクの大杯」と呼ばれる遺物です。
これは紀元前3000年頃に製作されたアラバスター製の大壺で、もともとは対であったと言われます。
アラバスターとは淡い黄色の比較的やわらかい石材のことですが、この地域では、全般に石材は産出されないため、他地域から輸入したものと考えられています。
大杯は90㎝ぼどの高さで、側面は手に食物やビールの入った器を掲げた人々や、家畜、穀物などが浮き彫りされています。
実際、当時のウルク周辺地域の穀物の収穫高は、古代世界で群を抜いていたと言われます。
ウルクの凋落
シュメールの歴史は紀元前2000年頃に成立した「シュメール王名表」と呼ばれる文書にまとめられています。
このうち5度にわたりウルクの王朝がシュメールを制したと記録されています。
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また、紀元前24世紀後半、隣接するアッカドのサルゴン王に当時のウルク王朝は敗北、ギルガメシュが築いたという城壁も打ち壊されたと言われます。
長きにわたり文明の発達をリードしてきたシュメール人は、以降その優位性を失い、周辺の民族と融合していきます。
メソポタミアではそれ以後、王国が勃興しては衰退し、やがてメソポタミア全域を統一したアッシリアが世界帝国を樹立します。
しかしそのアッシリアの崩壊後、今度はメソポタミア南部に興った新バビロニア、イラン高原から勢力を伸ばしたアケメネス朝ペルシアの支配を経て、マケドニアのアレクサンドロスの侵攻を受けます。
そして、さらにメソポタミア地方は目まぐるしい勢力争いの舞台となっていきます。
しかし、ウルクは久しく都市としての機能を保ちつづけ、ここで祀られていた女神イナンナもアッカド語の「イシュタル」と名を変え、オリエント世界で長い間信仰を集めます。
その繁栄に陰りが見え始めるのは3世紀、ササン朝ペルシアの頃で、その後イスラム帝国が勃興する頃には、街は放棄されていきます。
ウルクをはじめとするシュメール諸都市の発掘は、近代に入り少しずつ進められています。
シュメールの歴史も徐々にひもとかれてきてはいますが、来歴もはっきりとせず、彼らの持っていた高度な文化のすべても解明されているわけではありません。
また、古代メソポタミアの歴史は非常に複雑で、今なお紛争のつづく地域であるがために、なかなか発掘や研究が進まないのが現状です。
ウルクの最下層にはシュメール人の起源に結びつくヒントが眠っている可能性は高いが、ウバイド期以上の深い地層は近年地下水の浸食が激しく、現在は調査が休止している状態だそうです。